第 五 章 姉 と 妹
ノ エ ル
クロティルドがアンドレに持ってきた極上の一品は、二つのワイングラスとともに、オスカルの居室のテーブルに当然のごとく置かれていた。
すでに、半分まで減っている。
「女性というものは、結婚し母親となると、あのように恥じらいを失うものなのか?」
オスカルはチロリと傍らのアンドレを見上げ、再びワイングラスに手を伸ばした。
一口、含み、じっくりと喉を通す。
ほとんど甘みがないのに、喉越しの一瞬、溶けるような甘さが駆け抜ける。
「不作とは思えぬ絶品だな」
もう何度目かの感嘆が洩れた。
姉上たちの会話が相当気に入らなかったようだ。
このワインがなければ、もっと荒れていたな、と、アンドレはクロティルドに深く感謝した。
「特に、ジョゼフィーヌ姉は、相変わらずというかなんというか。何なのだ、あの態度は」
挨拶のときからけんか腰だったが、それも無理のないことかもしれない。
「大昔の話を持ち出して…。嫌味で悪知恵が働くところは、ちっとも変わっていない」
ああ、やはり、そのことを気にしていたんだな。
アンドレは、そっとオスカルの椅子に近づき、後ろから抱きしめた。
少し驚いたオスカルは、だが、おとなしく頭をアンドレに預け、グラスを置いた。
ジョゼフィーヌは、15才で嫁いだ。
アンドレは14才、オスカルは13才だった。
すでにアントワネットのお輿入れが決まり、オスカルはその護衛として、士官学校在学中に近衛隊入隊が命ぜられたため、日々訓練に勉強にと、来る日に備えて、忙しく過ごしていた。
オスカル付きとはいえ、士官学校で机を並べるわけにはいかない平民のアンドレは、屋敷での仕事を覚えるのに好都合だということで、そちらの方が忙しくなり、二人は少し離れた時間を持つようになった。
嫁入り支度に余念のないジョゼフィーヌは、そんなアンドレに何くれとなく用事を言いつけ、ために、一時、アンドレはジョゼフィーヌの従僕のようになっていた。
ジョゼフィーヌの用事は、オスカルの乱暴なそれと違い、一緒に部屋に飾る花を摘みましょう、とか、パリへ新しいドレスの生地を選びに行くからお供をしてちょうだい、とか、大層かわいらしいもので、すでに成長期に入り、ジョゼフィーヌよりずっと背も高くなっていたアンドレは、これこそ護衛だ、と、日頃、自分より強いオスカルの護衛という立場に疑問を感じていただけに、誠心誠意、ジョゼフィーヌに仕えた。
ジョゼフィーヌの方も、憎らしい妹へのあてつけのつもりで始めたことではあったけれど、アンドレの素直さや、誠実さが偽りのないものと知り、本当の弟のようにかわいがった。
あの希有な人生を歩む希有な性格の妹に、一生仕えれば、苦労するのは目に見えている。
アンドレさえよければ、許婚者に話して了解を取るから、自分についてこないか、と誘ったのは、彼女なりにかなり真剣に考えてのことだった。
ジャルジェ家を離れ、ジョゼフィーヌの嫁ぎ先で、ゆくゆく執事なり、地方の領地の代官なりにとりたててやりたい、とばあやにも話を通した。
だが、肝心のアンドレは、いかに乱暴で無理難題を押しつけられても、自分はオスカルの従者であるから、彼女の許可なく離れることはできないと、受け付けなかった。
そして将軍夫妻はアンドレ次第だという意見だった。
いよいよ嫁ぐという時になって、ジョゼフィーヌはオスカルに、涙ながらに言った。
「オスカル、今までいっぱいけんかをしたけれど、明日からはそれもできないわ。不思議ね。そう思うと、とっても寂しい…」
「姉上…」
いつもとうってかわってしおらしい姉にオスカルもしんみりとした。
犬猿の仲とはいえ、ジョゼフィーヌが嫁げば、この屋敷に残るのは自分一人である。
やはりそれはそれで寂しいことかもしれない。
「離ればなれになっても、わたくしと過ごしたことをいつでも思い出してもらえるように、贈り物をさしあげたいの。受け取ってくださいな」
ジョゼフィーヌは自分の首から、クルスをはずし、オスカルの手に握らせた。
小さな宝石が隙間なく埋め込まれたクルスで、亡き祖母からジョゼフィーヌが譲り受けた逸品である。
「姉上…。これをわたしに…」
「ええ。時には、これを見てわたくしを思い出してちょうだいね」
多感な年頃のオスカルは、深く感動し、
「わたしからも、何か差し上げたい。何がよいだろう…」
と、小首をかしげて真剣に考え始めた。
「では、オスカル、わたくしに決めさせて。わたくしがあなたを思い出せるように、あなたのものから、ひとつ選ばせて欲しいの」
決めかねていたオスカルは、渡りに船とばかり
「なんなりと…」
と、威勢良く答えた。
ジョゼフィーヌの瞳がキラリと光った。
「本当にわたくしが選んでもよろしいのね?」
「もちろんです」
「では…」
すーっと息を吸うと、ジョゼフィーヌは
「アンドレをちょうだい」
と一気に言った。
「な…に?」
「アンドレよ。あなたの大切なもので、いつ見てもあなたを思い出せるもの。ね、アンドレほどふさわしいものはないでしょう?」
「この野郎!妙にしおらしいと思ったら、やはりこういうことか!」
怒髪天を衝く…というのはこういうときに使うのだな、と側で聞いていたアンドレは、このやりとりの対象が自分であるにもかかわらず、妙に冷静に分析していた。
オスカルの怒りを冷静に受け流している点ではジョゼフィーヌも同様で、
「なんでもいいとい言ったのはあなたの方よ」
と、誇らかに勝利宣言をした。
目線で人を殺せるものなら、今すぐしてやるものを…。
だが、ここで我を失っては負けを認めるようなものだ。
オスカルの長考がはじまった。
あわてるな、ゆっくり考えろ。
どこかに活路があるはずだ。
よし…!
「姉上、たしかに、わたしは、わたしのものからなんなりと、と申し上げた」
「そうよ。だからわたくしはアンドレがいいと…」
「姉上、アンドレはものではありません!」
アンドレはびっくりしてオスカルを見た。
「アンドレはわたしと同じ、生きた、血の通った人間です。もののようにあげたりもらったりすることはできない。姉上とわたしが姉妹であるように、わたしとアンドレは兄弟です。無論、アンドレが姉上と行きたいと望むのなら話は別ですが…」
そう言うと、オスカルもアンドレを見た。
おまえはどうなんだ、と目が語っている。
「アンドレも同じ事を言ったわ。あなた次第だと」
「では、決まりだ。姉上、お望みのものを差し上げることはできませんでした。ですから、これはお返しいたします」
オスカルは握っていたクルスを姉に差し出した。
「わたくしの負けね。それは戦利品としてあなたにあげるわ。今更返してもらうのはとっても癪だもの。茨の道が待っているっていうのに…。せめてそのクルスがあなたたちを守ってくれるよう、しっかり持っていてちょうだい」
ジョゼフィーヌはそう言って、本当に痛ましそうにアンドレを見た。
あのときのやりとりは、時が流れて、いろいろなことを経験してから、アンドレの胸に何度か蘇った。
ジョゼフィーヌの痛ましげな瞳、助けてやりたいという愛情、そういうものが、一見、突拍子もないわがままな申し出の後ろに秘められていたことに気づき、深い感謝の念とともに、それでもジャルジェ家に残ったことをいささかも後悔せずに、思い返したものだった。
オスカルは覚えていたのだな。
−寝台に横たわるあなたを見たときは、心臓が止まりそうでした。あのときほど、あなたを嫁ぎ先に連れて行かなかったことを後悔したことはありません。−
挨拶のときのこのジョゼフィーヌの言葉がオスカルの胸をえぐったのだろう。
すべては俺の決断だったのに。
アンドレはオスカルを抱く腕をゆるめた。
そしてオスカルを立ち上がらせ、自分がオスカルの椅子に座り、オスカルを膝の上に座らせた。「ジョゼフィーヌさまには一片の悪意もない。おまえだってわかっているのだろう。せっかくの一級品を一夜で空けてしまうのはあまりにもったいない。続きはこれで我慢しろ」
ワインのかわりにアンドレの唇がオスカルに与えられた。
おまえはお見通しだな。
わたしが何を思い出し、何に怒り、何に傷ついたか…。
いや、傷つくというのはおこがましいな。
傷ついたのはわたしではない。
傷ついたのはおまえの瞳、おまえの身体、そしておまえの心…。
膝の上に抱き取られたまま、繰り返し与えられるくちづけ。
たしかに絶品のワインよりさらに美味だ。
この味に免じて、ジョゼフィーヌ姉のことは許してやろう、とオスカル甘い陶酔の中で思った。