第 九 章  夫 と 妻

ノ エ ル

ベルサイユの郊外にある教会は、深夜ミサを終えて静まりかえっていたが、まだ、わずかに灯りが残っていて、二人をほっとさせた。
「これなら、なんとか探せそうだな」
オスカルはそっと扉を開けて礼拝堂に入った。
そして、先ほど座っていた席へアンドレを導いた。
「確かこのあたりだった」
「ジョゼフィーヌさまのベールと、オルタンスさまの聖書と、クロティルドさまの指輪だったな」
「ああ」
と、答ながら、椅子の下をのぞくと白いベールが見えた。
「あったぞ、ベールだ」
いかにも高級品の白いレースのベールをオスカルは手に取った。
「頭にしていたものを落として、なんで気づかないんだ?」
と、どうしてもジョゼフィーヌには厳しいオスカルに、
「この聖書、オルタンスさまのじゃないか?」
と、アンドレが言った。
確かに中程に付箋のついた聖書だ。
「義兄上もお気の毒に。せっかくのご厚意は忘れ去られたらしい」
「オルタンスさまには悪気はないさ。ついうっかりだろう」
「まあ、そうだろうな。だが、同じ時間に同じ頁を、とは義兄上も純真であられる。どんな章を、あのオルタンス姉とお読みになる気だったんだろうな」
と、なにげなく付箋の頁を開けると、小さい紙片がはさまれていた。
「おやおや、手紙まである。これをわたしたちが見るのは失礼だ」
と、オスカルは早々に聖書を閉じた。
「あとは指輪か。これはなかなか難しいぞ」
二人は床にはいつくばって、手探りで探し始めた。
「クロティルド姉は確かこのあたりに座っておられたはずだが」
「案外転がって、前の方に行ってしまっているのかもしれないぞ」
と、アンドレは、扉から祭壇に向かってゆるやかなスロープ状になっている床から立ち上がり
前方へ歩き出した。
「なるほど」
と、オスカルが後を追いかけようと立ち上がった時、祭壇脇の扉から蝋燭を持った人が出てきた。
「お探しものですか?」
低い声が響いた。
蝋燭の明かりに照らし出されたのは、白髪の神父だった。
「神父さま…」
オスカルとアンドレは決まり悪そうに祭壇に近づいた。
「お騒がせして申し訳ない。わたしはオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェです。家人の忘れ物を探しに参りました」
「これはこれは、オスカルさまでしたか」
神父は、にっこりと二人を見つめた。
「で、見つかりましたか」
「それが、指輪だけが見つかりません」
アンドレがベールと聖書を差し出して、
「この二つはあったのですが」
と言うと、神父は
「この指輪ですかな?」
と、銀色の小さなリングを懐からを取り出した。
オスカルは、
「あわてて来たので、姉からどのような指輪だったかを聞いて参りませんでした」
と、バツ悪そうに答えた。
まったく、母上が急がせるものだから、これでいいのかどうかわからないではないか。
「何か文字が彫ってはございませんでしょうか?」
アンドレが訊いた。
そうか、姉上の名前か紋章が入っていれば間違いないのだ、と、オスカルは期待を込めて神父を見た。
「ありますよ」
と、神父は慈悲深く答えた。
「有り難い。なんと彫ってありますか?」
オスカルは咳き込むように尋ねた。

「アンドレよりオスカルへ、と」
あまりに意外な神父の言葉に二人は耳を疑った。
「!!」
そして、奪うように指輪を受け取ると、文字を見た。
確かに銀の指輪の内側にくっきりと
「アンドレよりオスカルへ」
と刻まれていた。
「オスカルとある以上、これはあなたさまのものに間違いありますまい。それともまだ渡す前なのでアンドレのものでしょうか?」
神父はにこにこと微笑んでいる。
二人は言葉もなく立ちつくしていた。
「アンドレ・グランディエ、聖書の付箋のところを開きなさい」
神父は厳かに命じた。
アンドレがあわてて、聖書を開くと、さきほどオスカルが読まずに戻した紙片がはさまれていた。
「読んでご覧なさい」
またも神父が命じた。
「オスカル、神の前で永遠の愛を誓いなさい。心からの祝福を。母。
アンドレ、この指輪は見舞いの品の追加です。頼みます。姉」
アンドレの読み上げた言葉に、オスカルは声も出せず、神父を見つめた。
「ということです。ジャルジェ夫人とお嬢様方からのご依頼がありました。もし今夜、二人がここに来たら、祝福を授け、神前で結婚の誓いをさせてほしい、と」
あまりの衝撃に口を手で覆いワナワナと震えるオスカルに代わり、アンドレが言った。
「神父さま、ご存知の通り、わたくしは貴族ではありません。国王陛下の許可が降りるとは到底思えぬことに、主を巻き込むことはできません」
もっともな言い分だった。
すでに貴族の中でも、逼塞したもの達は、金のために裕福な平民と結婚するものも出ているのはディアンヌの例を持ち出すまでもない事実だ。
だが、ジャルジェ家ほどの大貴族である。
このような勝手な振る舞いがただで済むとは思われない。
「申し遅れました。わたしはローマから派遣されてこの教会に参っておりましたが、帰国命令が下り、明日、本国に帰国致します。従いまして、これから授ける祝福を誰かに告げる時間的余裕はありません。公に発表なさるかどうかは、ご当人のお気持ち次第、ご当家のご判断次第ということです。そして、ジャルジェ家では当分のあいだは公表なさらず、折を見て、とのご意向だと、マリー・アンヌさまより伺っております」

オスカルの蒼い双眸からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
白いベール、聖書、指輪、それらはすべて計画的に忘れられたものだった。
二人を正式に結婚させるために…。
おそらくすべては夫人の意向であり、それを呈してのマリー・アンヌの計画であり、さらにそれをふまえてのクロティルドたちの実行であったのだ。
神父は言った。
「アンドレ・グランディエ、オスカル・フランソワの頭にベールを」

だが、アンドレは身動きひとつせず、オスカルを見つめていた。
−いいのか、本当にいいのか。
俺にはなにもない。
おまえをしあわせにできるだけの地位も身分も財産も…なにもない。
ましてタイタンの力もサテュロスのひづめも男としておまえをまもってやるだけの武力も…!
アンドレがただひとつの瞳に万感の思いを込めて訴えていることに、オスカルは静かに答えた。
−血にはやり武力にたけることだけが男らしさではない。
心優しく暖かい男性こそが真に男らしいたよるにたる男性なのだ。
母上と姉上に感謝する。
よかった。
気づくのが遅すぎなくて…。

再び神父が言った。
「アンドレ・グランディエ、オスカル・フランソワの頭にベールを」
アンドレは静かに白いベールをオスカルの金色の髪にかぶせた。
そして神父に聖書を渡した。
神父は聖書を掌にのせ、その上にアンドレとオスカルの手を導いた。
「アンドレ・グランディエ、あなたは富めるときも病めるときもオスカル・フランソワを妻として愛することを誓いますか?」
「誓います」
「オスカル・フランソワ、あなたは富めるときも病めるときもアンドレ・グランディエを夫として愛することを誓いますか」
「誓います」
「では、誓いのくちづけを…」
アンドレはベールをかかげ、オスカルの両の頬にそっと手を添えて密やかに、けれどすべての愛を込めてくちづけをした。
二人が唇を名残惜しそうに離すと、神父は指輪をアンドレに渡した。
アンドレはオスカルの細く白い指を手に取り、指輪をはめた。
そのサイズがまったく違わなかったことに、母と姉の深い思いやりが感じられた。
神父が短い祈りの言葉を述べ、最後に二人に祝福を授けた。
そして、明朝早くの出立なので、と言い訳すると、早々とその場を立ち去った。
その後ろ姿に二人は深々と頭を下げ、心から礼を述べた。

オスカルはベールを丁寧にたたみ、コートの懐にしまった。
アンドレは聖書と手紙を同じく、コートの懐にしまった。
そして、来たときと同じように並んで馬に乗った。
手綱を引くオスカルの指に銀の指輪が光り、その上にアンドレの手が重なった。
闇の先に待ち受けるものが、どのように困難を伴っても、この手のぬくもりを離すことはなく、この指輪に込められた母と姉の愛情が褪せることはないのだ、とオスカルは確信し、背筋をピンと伸ばし、静かに馬を歩ませた。
一頭の馬と一組の夫婦が闇の中に消えていった。



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