La Vie en Rose

5  サン・ジェルマン・デ・プレ

作 オンディーヌさま

その朝、オスカルはひどく咳き込んだ。

いつもの咳のはずがどうも止まりそうもない。

肺の奥から何かがはけ口を求めて込み上げてくるような、そんな感じだった。

 

「オスカル」

扉の向こうで声が聞こえた。

アンドレが馬車の用意を済ませ、迎えに来たのだ。

 

オスカルはハンカチで口を押さえたまま、寝室に走りこみ鍵をかけた。

ベッドにうつぶせて咳が止まるのを待ったが、咳は激しさを増すばかりで背中まで響くほどだった。

呼吸する暇さえ与えないこの咳はなんだ?

オスカルは上半身全体で咳をしながら、口に当てていたハンカチをいったん離した。

そこには、分泌物に混じって血が一点、白いハンカチを染めていた。

これはどういうことだ?

オスカルは左手でシーツを無意識に掴みながら、咳と呼吸苦に耐えた。

神よ!おお、神よ!病をもって私とアンドレを引き離されるおつもりか!?

 

「大丈夫か?オスカル!」

寝室の扉をノックする心配そうなアンドレの声。

 

ようやく、咳がおさまりオスカルは呼吸を整えてから扉を開けた。

その青白い顔がよけいアンドレを不安にさせた。

「風邪でもひいたのか?」

まだ、呼吸があがっているオスカルを抱き寄せ、背中をさすった。

軍服を着ていないオスカルの背中から、いつもとは違う体温が伝わってきた。

「熱があるじゃないか!今日は休め!」

 

「いや、大丈夫だ。なんでもない」

オスカルはアンドレから身体を離し、ほんとに何事もなかったかのような表情で出掛ける準備を始めた。

 

どうして言えないのだ?

症状が気になり出してからもう一月以上もたつと・・・

一度、医者に診てもらうと・・・

いや、口に出すには不吉過ぎる!

それに療養する時間など今の自分には、到底ない。

ただ、あまりに激しく咳き込んだので気管支が傷つき出血しただけだ!

たまたまのことで、今回一回限りのことだ!

そう自分に言い聞かせ、いつものように出勤した。

 

 

 

 

その日の午後、オスカルはアンドレを供にパリの留守部隊まで馬車を走らせていた。

出勤してしまえば、体調不良のことなど完全に忘れてしまうことができた。

 

途中、ドーフィヌ広場でこぶしを胸の前で力強く握り、また時には両手を大きく広げ、活き活きとした目で多くの民衆を前に演説しているベルナール・シャトレに出会った。

オスカルは馬車を止めさせ、その光景に見入った。

 

「フランスはいまこそ長い眠りからさめ古き忌まわしきいっさいのものから解き放たれるのだ!アンシャン・レジームは今、まさに崩れ去らんとしている!!」

 

    Ah! s’il est dans votre village  Un berger sensible et charmant

 

「アンドレ!歌が聴こえる!」

オスカルははっとした。

そして、声の主を馬車の中から探そうと身を乗り出した。

 

  Qu’on cherisse au premier moment, Qu’on aime ensuite d`avantage

 

その女の声はますます高らかに、澄んだ歌声となって響きだした。

こんな状況でなければ、そのまま、まどろんで聴き入ってしまいたくなるような美しい歌声だった。

 

  C’est mon ami, rendez-le-moi

 

一番前で演説を聞いていた屈強な男がずかずかと人混みを分けて入り、その女の肩をむんずと掴んだ。

「また、あの女だ!いったい何を考えている!?」

オスカルは馬車の扉を開け、ベルナールに手を振って合図を送った。

 

 

ベルナールは突拍子もない歌姫の登場と、この騒動の前駆状態をなんとかしようと機転を働かせた。

「シトワイヤン!その女は私たちの仲間だ!どうやら、歌いだすタイミングを間違えたらしい」

男はベルナールを振り返り、女の肩を離した。

とたんに女は身を翻し、群集を抜け出した。

オスカルはまた、その女を追い、アンドレも続いた。

 

ベルナールは言葉を続けた。

「聴いたか!?この甘ったるい調べこそ古き忌まわしきものの象徴だ!我らが飢え、凍えていたときに宮廷で歌われていた曲!苦しみの中のわれらをせせら笑い、贅沢に身を沈めている貴族の歌だ!こんな甘ったるい調べなどいつか必ず、我らが力強い革命歌でかき消してやろう!」

 

「革命!?」

オスカルは初めて聞くその言葉にベルナールを思わず振り返った。

ベルナールは相変わらず、頬を紅潮させ熱弁をふるっていた。

 

「オスカル!ポン・ヌフだ!ポン・ヌフを渡っている!」

アンドレが後ろから叫んだ。

一瞬、視界から姿を消した女が橋の上を黒いマントを翻しながら、走り抜けようとしていた。

「いったい、どんな血迷った眼をしているというのだ!なにが『それは我が恋人』だ!?今日こそその正体を暴いてやるぞ!」

オスカルは今度こそ逃がすまいと必死で女を追った。

 

アンドレはまだオスカルに伝えなければいけないことがあった。

オスカルが歌声の主をその視線で捉えるその一瞬前に、女がこっちをちらっと見やったのだ。

あれは、俺たちがここにいるのを知っていて歌っていたのだ。

とうより、俺たちがそこにいたから、歌いだしたのか?

なんのために?

 

「いや、俺たちではない!オスカルだ!!オスカルをおびき寄せるためだ!!」

 

アンドレは身軽な女二人にかなり引き離されていた。

女は橋を渡るとまっすぐ、リュクサンブール宮の方向へ見え隠れしながらも走り続けていた。

オスカルは朝から忘れていた体調不良を思い起こさずにはいられなかった。

 

どうして、こんなに息が苦しいのだ!?

苦しくても走る速度を落とさないオスカルに気が遠くなるほどの呼吸苦が襲ってきた。

 

そう思っていると、また女の姿が消えた。

「どういうことだ?」

速度を落としたオスカルの前に鐘楼を持つロマネスク様式の古い建物が現れた。

「サン・ジェルマン・デ・プレ教会!」

他に隠れられそうなところもない。

「この中か?」

オスカルは教会の扉を押し開き、中へ入った。

ひんやりとした空気と静けさの中に女の気配はなかった。

 

「いや、いた!」

 

奥の祈祷室の扉に黒いマントの裾が消えるのが見えた。

 

こんな出口のないところへ隠れても逃げようがないではないか。

オスカルは足音を忍ばせ、祈祷室の中へ入った。

薄暗い、さほど広くはない部屋を見回し、女の姿を捜した。

「どこだ?」

また消えたというのか?

 

Mon ami・・・(愛しい人)

女があたかも誘うように歌った。

オスカルは声のする方へ身体を近づけた。

 

すると、オスカルは右手首をものすごい力でつかまれ、壁だと思っていた方へ引きずり込まれそうになった。

つかんでいるのは、確かに女の手なのだがその力は女のものではなかった。

とても振りほどけないと思ったオスカルは叫んだ!

「アンドレーッ!!」

 

その時、アンドレはやっと教会の扉のところまでたどり着いたところだった。

 

 

 

 

―つづく










            


 ←オンディーヌさまへのご感想