La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
オスカルはとても殺風景な部屋で目覚めた。
壁に絵画やタピストリーがあるわけでもなく、ドアや壁に彫刻をほどこしたものも一切ない。
ベッドも寝心地はいいが極めてシンプル。
夕べはワインを勧められたあと、急に眠気が襲い、寝室に案内されると絹の寝巻きに着替えさせられてそのまま眠ってしまった・・・ようだ。
記憶をたどって、洗面台で朝の支度を始めた。
言われたとおりの石鹸で顔を洗い、基礎化粧品を使っていった。
白いボトルの化粧水が薔薇の香りで付け心地が非常によかった。
夕べの手入れがよかったのか、髪の櫛どおりもなめらかだ。
ピンポーン!
たしかこれは来客の合図だ!
モニターで確かめると、おお、アンドレだ!
ドアを開けると間違いなくアンドレが朝食を手に立っていた。
「どうやら、夢の続きを見ているらしい。さっき、サ・ワラビー夫人が焼きたてのパンを置いていってくれた」
アンドレを食堂まで招き入れると、キッチンの使い方を覚えたらしいアンドレが冷蔵庫なるものから食材を取り出し、簡単な朝食を作ってくれた。
二人は向かい合ってテーブルにつくと、この受け入れがたい現実にどう対処すべきか二人は顔を見合わせ、ため息をついた。
「本当に、もとの世界に戻ったとき、時間は待っていてくれているのだろうか?」
オスカルはそのことが一番気になるらしい。
「だが、断れば俺たちを無理には引き止めないとも言っていたぞ」
二人は食事のすすまないまま、また溜め息をついた。
「おまえ、右の視力が落ちてきているというのは本当なんだな?」
オスカルが正面から見据えて、アンドレは目を伏せた。
「ああ」
「どうして言わなかった!?」
「おばあちゃんに止められた。身分をわきまえ、主人に迷惑をかけるなと」
「ばかな!なにが身分だ!」
オスカルの青い目が怒りで大きく見開かれる。
「おまえこそ、いつから具合が悪いんだ?どうして黙っていた?」
「忙しかったんだ!」
さすがに不吉で怖かったとは言えなかった。
このまま元の世界に戻れば・・・
「おまえは光をなくし・・」 (俺はおまえを永遠に見ることができなくなる)
「おまえは命さえ危うくする・・」 (病が私とおまえを永遠に引き裂くかもしれない)
ピンポーン!
また来客だ。
「オスカルさま、まだお寝巻きでいらっしゃいますか?」
二人の暗い顔をよそにオードリーが弾む声で入ってきた。
食事が途中の食卓の様子を見てジュースや果物を加え、家で作ってきたスープを温めた。
「私たちが用意しましたお洋服はお気に召しませんでした?」
相変わらず明るい声音のオードリーにオスカルは微笑んだ。
「まだ、よく見てないのだよ」
オードリーは笑顔で答えると
「お食事がおすみになりましたら、どうぞ客間の方へ。お茶を用意しておきますね」
そう言って出て行った。
結局、客間に現れたオスカルは昨日と同じ服装をしていた。
オードリーはくすっと笑い、二人にお茶を入れた。
「見てください。立派なピアノでしょ?」
そういうとピアノフォルテの方へ歩いてゆき、鍵盤のふたを開けるとこちらを振り返って微笑んで椅子に座った。
弾き始めたのは短調のワルツだった。
聴いたことのない曲だったが、その美しい音楽が三人を包み込んだ。
オスカルが一番驚いたのは、その楽器の持つ豊かな音色だった。
召使いなしの湯浴みより、この楽器の進歩のほうがよほど時代の流れを感じさせる。
そのうちオードリーの右手が宝石を散りばめたような細かな音符のメロディーを奏で始めた。
オスカルはティーカップを持ったまま、オードリーの隣に立った。
「少し感傷的なメロディーだが、誰の曲だ?」
オードリーはオスカルを見上げながら言った。
「ショパンです。モーツァルトよりだいぶ後の作曲家です」
曲が長調に変わり、伸びやかな旋律が心地よく響いた。
オードリーの小さな左手は確実に和音をとらえ、右手のメロディーをしっかりと支えていた。
オスカルの口元が思わずほころんだ。
アンドレもオスカルの反対側にやってきた。
二人に挟まれ、オードリーはどちらを見ていいのやらという戸惑いと、驚きと嬉しさで、かわるがわるに二人の顔を眺めた。
曲がまた短調に戻り、強弱を繰り返しながら美しく終止記号までたどり着いた。
オスカルは譜面台の横にティーカップを置き、「ブラボー!」と拍手を送った。
気分転換のために弾いたつもりが、たいそう喜んでもらえた様子にオードリーは顔を赤らめた。
「オスカルさまも弾いてごらんになります?楽譜はいろいろ用意したんですよ」
「いや、もう一曲なにか弾いてくれないか」
「では、どうぞ椅子にかけてお聴き下さい」
オードリーが困ったような顔で言った。
二人に挟まれて嬉しいのだが、これでは緊張して演奏できたものじゃない。
アンドレがどの椅子を運ぼうか迷っている様子だったが、結局、運ぶのが一回ですむ長椅子を軽々とピアノの横まで持ってきた。
もとの位置のままで十分なのなのだがと、オードリーは苦笑した。
自分の隣に仲良く並んで座る二人を見て、あまりの近距離に緊張しながらも期待満面のオスカルさまと寄り添うアンドレを見たら、張り切らざるを得ない。
今度もショパンなのだが、より壮麗な曲を選んだ。
オスカルは最初、目を閉じて聴いていたが、途中から演奏者の指や腕の動きを楽しげに見入りだした。
オスカルの視線を感じ、緊張で演奏から気がそれてしまいそうなのを精一杯の自制力で対処した。
演奏する姿を美しく見せたいと思うのは山々だが、そんなことまで考えていたら曲を間違えそうで、「いつも通り」を自分に言い聞かせ演奏を続けた。
オードリーの指は細かな音符を流れるように奏で、オスカルよりはるかに小さな手はいっぱいに開かれ和音を掴み、腕も右に左によく動いた。
なにより、小柄な身体のどこにこんな力があるのかと思われるほど上半身全体を使い、部屋全体に響き渡る豊かな音色を紡ぎ出していた。
演奏が終わると今度は拍手はなかった。
観客の方を振り向くと、オスカルが立ち上がりこちらに近づいてきた。
自分も思わず立ちあがり、お辞儀でもしたほうがいいのかしらと思っていたら、オスカルがやや膝をかがめ、「曲もいいが、あなたの演奏が素晴らしい」と軽く抱擁した。
(おお〜!!)と心の中で叫びながら、目を真ん丸くしているとオスカルさまの肩越しにアンドレと目が合った。
アンドレはこちらの気持ちを見透かすかのように微笑んでいた。
オスカルの抱擁から解き放たれたオードリーは、息絶え絶えにアンドレの横に腰を下ろした。
「素晴らしかったよ」
とアンドレは声をかけたが、オードリーは聞こえなかったのかそれには返事をせず、片手で胸を押さえ大きな溜め息をつくと椅子に身体を沈めた。
ほとんどの女性はオスカルに興奮し、自分の横に来ると安堵する。
その微笑ましい態度にアンドレは苦笑した。
オスカルはピアノの前に座り、その音色を自分の指で確かめていた。
「ずいぶんと難しい曲だったな」
「ええ、そうです。難しいです」
まだ、放心状態のオードリーだったが、気を取り直して壁を指差した。
「その開き戸に楽譜が入っています。一番右は連弾の楽譜ですが、他は作曲家もジャンルも豊富に用意いたしました」
「おお、壁の中に書棚か」
オスカルはいくつかを手に取ったが、連弾の楽譜を選んで上のパートを弾き出した。
決して、簡単な曲ではないのだが二、三度弾くと振り返り、「なんとか合わせられそうだ」
と言った。
(えっ?合わせるんですか?)
嬉しい誘いのはずなのに、さっきの抱擁の興奮からやっと立ち直ったばかりのオードリーにはまだ疲れが残っていた。
だが、重い腰を上げ、恐る恐るオスカルの左に座った。
「アン、ドゥ、トロワ、キャトル」とオスカルが小さな声で拍子をとると二人は同時に軽快な曲を演奏し始めた。
オスカルが連弾でピアノを弾くなど姉君達がまだ、嫁ぐ前以来のことだ。
オスカルの細く長い指が鍵盤の上を滑るように動く。
しかし、今まで弾いてきた曲とはジャンルが違うので先が読めない。
オスカルが遅れそうになると、オードリーの伴奏もそれに合わせた。
やがて、オスカルがアンドレに楽譜をめくるよう合図した。
それから、アンドレはずっとオスカルの右に立ち合図の度に譜面をめくりながら、譜面を必死で追うオスカルの楽しそうな表情を見下ろしていた。
オスカルは本当に楽しそうにしていた。
こんなに活き活きした笑顔は久しぶりに見たとアンドレは思った。
曲が終わるとオスカルの笑顔は一段と華やいだものとなり、アンドレに視線を送ったあと、「いい曲だ」と言ってまたオードリーをハグした。
はぁ、と聞こえないような小さな溜め息はついたが、オードリーも少し慣れてきた。
「初めての曲ですのに、オスカルさまは素晴らしいです」
(他の二人がどんなに羨ましがるか・・・並んでピアノを弾いて、二回もハグされたなんて)
オスカルが他の楽譜も取り出し、ピアノに夢中になっている間、アンドレとオードリーは遅めの昼食の準備を始めた。
夕方には、サ・ワラビー夫人がオスカルを病院へ連れていくことになっていた。
―つづく−