La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
南向きの窓から入る陽射しがだんだん薄暗いものとなり、オードリーは部屋の照明をつけた。
窓のはるか彼方まで広がる町並みにも、明かりが点き始めていた。
「一日、外へ出ないというのはなんだか変な気分だな」
オスカルは一日をオードリーとアンドレとともに音楽に包まれて過ごした。
オードリーの奏でる新しい調べと豊かな音色、そしてくったくのない笑顔がオスカルの心と身体を癒した。
この人たちはいったい、いくつくらいなのだろう?姉上達と同じくらいか?
東洋人の年齢はとても分かりづらい。
貴族なのだろうか?それにしては気取ったところがないが・・・
どうやって、私たちのことを知り、どうしてわざわざ他人の治療のために時間と労を費やそうとしているのだろう?
疑問は尽きないが、無難な二番目の質問だけしてみることにした。
「あなた方は貴族なのか?」
オードリーはびっくりした様子で答えた。
「いえ、身分制度そのものが存在していませんので・・・私の祖先も貴族ではありませんし」
やっぱり、身分制度は当の昔に廃止になったらしい!オスカルは妙に納得した。
ピンポーン!
きっと彼女だと思っていたとおり、サ・ワラビー夫人が登場した。
それと交代するようにオードリーが名残惜しそうに帰っていった。
後で聞いた話だが、この二人は既婚でありーお年からすれば当然のことなのだがーオードリーはご主人の帰宅に合わせて帰り、サ・ワラビー夫人はご家庭の用事を済ませてから駆けつけてくれたらしい。
「オスカルさま、病院に出かけなければなりません。どうかお着替えをおねがいします」
そう言って、サ・ワラビー夫人が、私たちが向こうの世界から入ってきた扉のある衣裳部屋で何着か服を選び、寝室のベッドの上に並べた。
「スカートはお嫌でしょうから・・・」
と何着かコーディネイトしてくれたものの中から、オスカルは女性っぽくなくまた、着心地のよさそうなものを選んだ。
「アンドレ、夕食を頼んだぞ!」
オスカルはそういうと、何かを思い出したようにアンドレに耳を貸すよう合図し、フランス語で囁いた。
サ・ワラビー夫人には聞こえなかったが、それが愛の言葉ではないことはアンドレの様子から見てとれた。
アンドレは困ったような、呆れたような微笑を浮かべ、二人を送り出した。
二人が馬のない馬車に乗り込んだ頃には、外はすっかり夜の帳が下りていた。
「こんな夜に診察をやっているのか?その病院は」
オスカルは後部座席から尋ねた。
「あの、オスカルさま・・・あなた様方の身元を証明するものは何一つなく、いわば不法入国の状態なのです。それに加えて、この国ではオスカルさまの病気を診断した医師は保健所への届出の義務が法律に定められております」
話がやたら現実味を帯び「時空を越えた」という表現を、どうやら本当のこととして受け止めなくてはならなくなってきたらしいとオスカルは感じた。
サ・ワラビー夫人は言葉を続けた。
「ですので、ご無理を言えるドクターを探したのです。また、信頼のおける専門医でなければいけません」
「あなた方はどうして、そこまで私のためにしてくれるのです?」
「それは・・・」
サ・ワラビー夫人の張りのある声が、初めてよどみ、やがて澄んだ力強い声音へと変わった。「それは、私たちの思い、執着が非常に強すぎるからかもしれません。私たちのオスカルさまとアンドレへの思いをどういう言葉で表せば的確なのかは分かりません。ですが、私達はオスカルさまの選ばれる、これからの人生の選択肢を減らしたくないのです」
「選択肢が減るとは?」
「オスカルさまはこれからも、ご自分の信念を曲げて生きるということをなさらないでしょう。ただ、これから選択していくご自分の人生の選択肢はできるだけ豊かであってほしいと思うのです。ですから、それを阻むものを私たちは除外したい、それだけです。今はそれが、その胸に巣食う病なのです」
「この病を今、治療しなければ私の人生の選択肢は減ってしまうと?」
「その病を放置し、今までの生活を続ければ病は急速に進行し、死は非常に身近なものとなります。人生の長さだけがその人の幸せや生きた価値に繋がるとは思いませんが、残りわずかな人生の中で選べるものはおのずと限られてくると思うのです。少し、悲観的でしょうか?」
今度はサ・ワラビー夫人が尋ねた。
「確かに、あなたのおっしゃるとおり私の人生がどこで終わろうと私の信念を曲げることなど絶対できない。そんなことをしたら、もはやそれは私の人生ではなくなってしまうからだ」
そう言うとオスカルは黙ってしまった。
そうだ、死の覚悟などとうにできている。軍人として育てられ、ずっとそうして生きてきたのだから。ただ、その死が名誉ある武官としての死でなくても、自己の真実、理想に従い行動した結果、もたらされたものだとしたら、それほど誇り高く幸せな死があるだろうか。
私はどうして医者にもかからなかったのだろう。それは、病がもたらす死以外の死をひそかに予感していたからなのだろうか。そして放置された病はより確実な死の予感を与え始めていただろう。そうしてどんどん、私は生きるという先にある選択肢を自分から遠いものとしてしまっていたのだろうか。
「だが、あの時代に軍人として生きていたら死などいつも傍らにいるのと同じことなのですよ」
オスカルが口を開いた。
「確かに、寿命というのは私たちで決められるものではありません。それに意味のある死というのもあるのかもしれません。ただ、こちらの世界へお呼びしたことで生きる可能性は広げられると思うのです」
『生きる』
そうだ。死を覚悟してなお恐ろしいと思うこと、それはアンドレと引き裂かれること。祖国のために死ぬことを厭わないと思ってなお、生への執着を感じさせるのはアンドレの存在。自分に寄り添い支えてくれた存在。今の自分を形成するのに不可欠だったと思われる存在。現実から逃げ出したくなる自分を本来の自分にとどめてくれる存在だったアンドレが、今度は別の世界への可能性を示す存在となっているのか。
「人生とはおかしなものです。予想がつかない」
オスカルはうつむき加減に、ふふっと笑った。
サ・ワラビー夫人はあえて答えなかった。
人生がままならぬものであることは、今まで何度も経験してきた。
そして、その都度それを乗り越えてきた。
「さあ、着きましたよ」
馬のない馬車を御してきた夫人は、オスカルにも降りるよう促した。
町外れの小さな病院かと思っていたら、そこにはそびえたつ巨大な建物が視界を塞いでいた。
正面玄関は閉じられており、通用口のようなところから入り、くねくねと廊下をまがると広い暗いロビーに出た。
その奥には無数の椅子が並び、待合室となっているらしい。
「この椅子が昼間はすべて埋まるのか」
「そのほかに車椅子の方や寝台に乗ったままの方も並びますので、大変な混み具合です」
驚いていると、そのまま5番と書かれた診察室へ案内された。
サ・ワラビー夫人は外で待っていると言った。
中へ入ると、オンディーヌが白い服を着て立っていた。
「おお、あなたは・・・ここのナースなのか?」
オンディーヌは口元だけで微笑んで答えると、熱を測り、脈をとり、血圧を測ると指先をクリップで挟み、なにかを測定した。
その数値を紙に書き留め、デスクの上に置くと同時に、ドクターらしき男性が入ってきた。
ドクターは数値に目を通したあと、患者に向き直り微笑んだ。
胸につけた名札には「TAKABAYASHI」と記されていた。
「いつからどういう症状がでましたか?」
早口で聞くと、すでにペンを持ち患者の主訴を書き始めようと構えていた。
オスカルは背中を押されるように、一月ほど前から咳と微熱が出だし、倦怠感が強くなり先日、強く咳き込んだときには少量の喀血をみたことを告げた。
Dr.高林はオスカルの顔色と胸の動きで呼吸の状態を観察すると伝票を二枚書き、オンディーヌに渡した。
オンディーヌはオスカルを連れ、別の部屋まで早足で廊下を案内した。
とても病人を案内しているとは思えない速度で検査室に案内すると、上の服はすべて脱ぎ、薄い寝巻きのような検査着に着替えるよう言った。
ひんやりした部屋で壁に向かって立たされると、息を吸えだの止めろだの言われ、あっという間にその部屋での検査は終わった。
次に並びの別の部屋では寝台にくくりつけられ、動かないように言われじっとしていると、寝台の方が勝手に動きだした。少し動いては止まり、また少し動いては止まりというのを何回か繰り返した後、こちらの検査もそれほど時間はかからず、終了した。
オンディーヌは大きな封筒を手に、オスカルを連れ診察室に戻った。
光る壁の上に白と黒のコントラストで浮き上がる絵を何枚か挟み込んでいった。
それが何を意味するものか分からなかったが、そのうちの一枚には見覚えがあった。
長い首から両鎖骨の形とそれに続く上腕、そして肋骨。
おお!これは私の胸郭だ!
オスカルは自分の内臓と骨格が映し出されたその絵に驚いた。
思わず、後ろに立つオンディーヌを振り返ったが、そこには自分以上に困惑しているオンディーヌの姿があった。
見開いたままの瞳からは、そのうち涙が零れ落ちた。
オスカルはもう一度、その絵を見直した。
胸郭のほぼ中央に位置する白い像は、おそらく心臓だろう。
そして両側の肺。
ところどころ、白いところがあるが、これは血管や気管支ではないのか?
そんなに悪いのか?
もう一度、オンディーヌを振り返ると彼女は流れ落ちる涙を拭おうともせず、ただ茫然自失し、立ち尽くしていた。
「オンディーヌ!大丈夫か!?」
患者そっちのけで取り乱すナースにオスカルは腹が立ってきた。
患者にそう問われ、オンディーヌはやっと我に返った。
両手で涙を拭うとオスカルとは目を合わそうとはせず、隣の部屋へ引っ込んでしまった。
やがて、手を洗う音や器具の擦れ合うカチャカチャいう音が聞こえてきたが、それも長くは続かず、Dr.高林がオンディーヌを従えて再び診察室へ入ってきた。
Dr.は絵を見るとそれをスケッチしながら、オスカルに微笑みかけた。
これからDr.は病状説明をしようとしているのだろうが、どんな説明よりも先程のオンディーヌの涙のほうがよほど雄弁だとオスカルは気を重くした。
この時代の医学をもってしも手遅れなのだ、きっと。
「こことここですね」と絵を指差しながらDr.は言った。
「ここが、病巣なわけですが、感染から慢性的な経過をたどったようです。そのため、風邪のような症状が続き気づきにくかった。よくあることなんです。あなたは他の疾患があるわけではないので、おそらく過労と不規則な生活が原因で発病してしまったと思われます。放っておいたらもっと大変なことになるところでしたが、早く来ていただいてよかった」
Dr.の声は思いのほか明るかった。
途切れ途切れに聞こえる英語もスピードだけは速かった。
「人にうつる病気ですので、本来なら専門病棟へ入院して治療するのですが、入院と同じ環境が保てるということなので規則的な生活と安静を心がけて、月に一回診察と検査にいらしてください。まあ、半年くらいを目安に治療していただけば、内服治療だけで治ると思われます」
「治るのですか!?」
「もっと、治療にとりかかるのが遅ければ手術も必要になったかもしれませんが。まあ、半年をめどに経過を見てみましょう」
「半年もですか!?」
治ると聞いて、オスカルは今度は治療期間の短縮に欲がでてきた。
「早く来ていただいてよかった。きちんと治療していただければ、それくらいだと思いますが、経過を診てみなければなんとも言えません。ほんとに早く来ていただいてよかった」
Dr.はそういうと再度、何枚かの伝票を書きオンディーヌに手渡した。
「あと、血液と喀痰の検査をしておきます。痰の中から結核菌が出れば確定診断がつくのですが、この特徴的な画像で間違いないでしょう。お薬を処方しておきますので、お大事に」
そっけないわけではないが、とにかく早口だ。
患者の悪あがきや愚痴を差し挟む余地を与えない。
かといって、彼の柔らかな口調ゆえ、冷淡にも聞こえず、事務的にことを済ませているという印象を与えるわけでもない。
おびただしい数の患者を診なければいけない、この時代のDr.のテクニックなのだろうか?
それともこのDr.だけの特徴なのだろうか?
そう考えているうちにオンディーヌがオスカルの右袖をまくり弾力のある紐で上腕をくくると、細い血管から血液を採取していた。
次に喀痰を採ると言って、ガーッと音のする器械の先に取り付けた細い管を鼻腔から気管に差し込んだ。
オスカルはひどく咳き込んだが、一瞬にして検体は採取され、それを持ってオンディーヌは検査室へ走った。
Dr.は「お大事に」と言ったあと、姿を消した。
診察室にはオスカルだけが取り残された。
さっきの医師はアンドレより少し若いくらいだろうか。
法を犯してまで、私を治療する意義があの医師にはあるのだろうか。
オンディーヌが色香であの医師を誘惑したと考えるには、ややとうが経ちすぎているような・・・
いやいや、それは恩人に対してあまりに失礼な考えだ・・・
だが、さっきの取り乱しようはなんだ?
患者とその検査結果を前に青ざめた表情を丸出しにするとは、けしからん!
と考えているとオンディーヌが私服に着替えて戻ってきた。
「さあ、帰りましょう」
と言うと、カルテや画像を大きな封筒に詰めだした。
「オスカルさまは架空の患者なのですべて持ち帰り、次の診察のときにまた持ってきます」
「あの医師はどうしてリスクを犯してまで私を診てくれたのだろう?」
オンディーヌは手の動きを止め、オスカルを横目で見た。
「まあ、男性にはいろんな欲望がおありのようですので」
そう言うと不敵な笑みを浮かべて見せた。
分からん!
さっきの茫然自失の頼りにならなさそうなナースとこの人を食ったような女が同一人物だとは・・・
いやいや、私よりなにかと経験豊富ということなのだろう。
オスカルは先ほど、医師に告げた症状の他に頭重感まで加わってきたように感じ、細い白い指で額を押さえた。
三人が、帰宅するとアンドレが夕食の準備を済ませ待っていた。
診察の結果が心配でならないアンドレにオスカルはまた、何かを囁いた。
アンドレは苦笑いを浮かべ、首を軽く横に振った。
「お酒なら、ございませんわよ。オスカルさま!」
オンディーヌが言った。
―つづく−