切望し、渇望していながら、実はかなえられるとは思っていなかった。
なぜなら、それはあまりに大それていて、しかも危険で、大勢の人を巻き込むものだったからだ。
だから、バルトリ侯爵から、オスカル・フランソワが決心したと聞かされたとき、彼は、しばらく何のことかわからずとまどってしまった。
だが、やがてそれが、自分がパリに行くことだと気づいた彼は、双眸から大粒の涙をあふれさせた。
口に手を当て、嗚咽をこらえる彼の肩に、侯爵の分厚い手が添えられた。
「ルイ・ジョゼフ…。今の君の姿を見れば、君がこの決定に伴う危険性を完全に理解していることがわかる。それでいい。誰かの援助を得ていることを承知しているなら、君は決して無理をしないはずだからね。わたしは同行できないが、変わりにニコーラがついて行く。一行は、オスカル・フランソワとアンドレ、ニコーラ、そして君だ。パリに行く前に一旦ベルサイユのジャルジェ邸に入り、そこで手はずを整える。ジャルジェ将軍夫妻は、クロティルドとオスカル・フランソワの両親だ。君はここできっと暖かいもてなしを受けるだろう。夫人は確か君の母上のこともご存知だ。わたしは君がこの旅で大いに成長してくるものと信じているよ。」
「あ…、あ…り…。」
謝礼の言葉も泣きじゃっくりがかき消した。
大人びた顔をして、大人びた発言をしていても、まだ13歳。
母が亡くなったときも、どんなに泣きたかっただろう。
だが、彼はじっとこらえていた。
そして大きな大きな決心をして、侯爵の後援を得、ノルマンディーにやってきたのだ。
それからオスカル・フランソワに、あらゆることを学んだ。
ハブスブルグとブルボンの両王家の歴史、神聖ローマ帝国とフランスの歴史、それはそのまま彼のルーツにつながった。
そして一方で欧州とフランスの現代史も学んだ。
自分の置かれている立場を理解するために避けては通れない勉強だった。
熟し切らない身体に、成熟した大人のような精神が宿るのに時間はかからなかった。
時に老成しているとすら表現できるほど、ルイ・ジョゼフの表情から子供らしさが消え、特に最近はその傾向が一層顕著になっていた。
だが、今、ここに思いを爆発させた少年がいた。
身体を震わせ顔を覆って、一人立つ少年。
うめくように、わめくように、そして絞り出すように、声変わりのはじまりかけたかすれた声が邸内に響いていた。
かたわらで、夫と少年の会話を聞いていたクロティルドは、少年に駆け寄り、思い切り彼を抱きしめた。
もっと早くこうしてあげれば良かった。
どうしてもっともっと抱いてやらなかったのか。
もっともっと泣かせてやらなかったのか。
激しい後悔とともに、クロティルドは泣きながら、少年の顔を自分の胸に押し当てた。
どれくらい時間がたったのだろう。
やがて少年が静かになった。
何かをふっきったかのように、すっきりとした顔をして、自分を抱くクロティルドの手を握った。
クロティルドはにっこりとほほえみ、ルイ・ジョゼフの瞳をまっすぐに見つめた。
「ドレスが濡れてしまいました。」
恥ずかしそうにルイ・ジョゼフが目を伏せた。
「あなたのためなら、ドレスなんてたとえ100枚ぬれても構わなくてよ。」
そう言ったクロティルドの顔こそ、涙で化粧が落ちて、日頃ならみっともない、と大急ぎで隠したに違いないが、侯爵も、そして同席したニコーラもニコレットも、今日のクロティルドが今までで一番美しいと感じていた。
「たくさん泣くと、お腹がすくでしょう?美味しいお菓子があるの。バルコニーでお茶にしましょうよ。」
ニコレットが自分のハンケチを出してルイ・ジョゼフの顔をふいてやった。
「白状するとね、おチビちゃんと呼ばれていたわたくしに弟ができて、とっても嬉しかったのに、ルイ・ジョゼフったら、とっても大人びているものだから、困っていたの。下手をするとニコーラよりしっかりしたことを言うんですものね。」
クスクス笑うニコレットに、ルイ・ジョゼフは困ったような視線を向けた。
「あのねえ、ニコレット。わたしはこれでもルイ・ジョゼフより10歳近く上なんだよ。その言い方はあんまりだ。」
ニコーラが不満そうな顔をするので、ルイ・ジョゼフが一層困っている。
「ルイ・ジョゼフ…。こんな言われ方をしているけれど、オスカル・フランソワは、きっと役に立つと思ってわたしを仲間にいれてくれたと思うんだ。だから安心したまえ、オッホン!」
ちゃめっけたっぷりに、ニコーラはルイ・ジョゼフに向かって胸を張った。
困っていたルイ・ジョゼフの顔がほころんだ。
焼き菓子を取り合うニコーラとニコレットの横でルイ・ジョゼフは、不思議な充足感に浸っていた。
頼りがいのある父。
優しい母。
そして兄と姉。
このノルマンディーに自分の家族がいたのだと、はじめて彼は理解した。
この家族がいるからこそ、血のつながった人々に会えるのだ。
帰ってくるところがあるからこそ、旅立つことができるのだ。
ルイ・ジョゼフは、そっとニコーラとニコレットの背後に回り込むと、手を伸ばして一番大きい焼き菓子をつかんだ。
「ああ〜!!そんなところから〜?こら、ルイ・ジョゼフ、ずるいぞ。それはわたしのだ。」
ニコーラが拳を振り上げた。
ルイ・ジョゼフは機敏に身をかわしクロティルドの後ろに隠れた。
「あらあら、まあまあ…!!」
クロティルドが扇で口元を押さえて笑っている。
侯爵も目を細めている。
今夜、オスカル・フランソワとアンドレがこの屋敷に来る。
出発の日取りを知らせるためだ。
それだけは、使者や侯爵からではなく、自分の口から伝えたい、とオスカルが希望したのだ。
人生の大きな賭けに出るのだから、それは当然のことだった。
明日から、ルイ・ジョゼフは準備に忙殺されるだろう。
彼の運命の扉は、まもなく開く。
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