※このお話は「舞踏会の奇跡の続きです。






馬車の中で、アンドレは一連のいきさつを簡単に説明した。
オスカルは驚きつつ、しかし黙ってうなずいていた。
フェルゼンが出征…
ロシアと戦争…
ではしばらくフランスには戻れまい。
別れの挨拶に来てくれたのだとしたら、愛想のないことをしてしまった。
だが、一方で、これでアンドレとフェルゼンが入れ替わる危険性もなくなった。
ホッとしている自分が意外だが、偽らざる本音だ。
こうして仕事で動く時に、自分のそばにいるべき人物は誰か。
間違いなく目の前に座る男だ。
幼い時から苦楽をともにしてきた。
言葉に出さなくとも、わたしが次にしたいことがわかっている。
たとえフェルゼンとでも、替えられるものではない。

「せっかく出陣前に来て下さったのに申し訳ないことをしたが、再び入れ替わってしまってはと思うと…つい…な」
アンドレは、事の顛末を話し終えたあと、決まり悪げに頭をかいた。
「やむを得まい。おまえがフェルゼンやらアランやらになってしまってはたまらんからな」
オスカルはそう言いながら窓の外に目をやった。
疲弊したパリの街が見えてくる。
貧困が蔓延していた。
だが、これは決してつい最近始まったことではない。
ルイ15世亡き後、なぜ二十歳にもならない若い国王があれほど歓迎されたか。
皆が飢えていたからだ。
生活が困窮していたからだ。
新しい国王ならきっと新しい政策を打ち出して、フランスを豊かにしてくれる。
国民がそろって期待したのだ。
それなのに…
暗澹たる思いがわき上がる。
「ベルサイユからパリへ通じるこの道を… 何度アントワネットさまのおともをして通ったことだろう。きらびやかなオペラ座の仮面舞踏会。豪華なオペラや演劇や…。それこそ毎日のように夜の明けるまで…。だがそんなぜいたくな遊びの間にただの一度としてアントワネットさまは市民の生活をのぞこうとはなさらなかった…。ご自分の治める国の国民がどんな暮らしをしているのか…ついに一度としてお尋ねにならなかった。残念だ…」
オスカルの伏せられた瞳に、アンドレもかける言葉が見つからなかった。

そのとき、大きく馬車が揺れた。
御者の悲鳴が聞こえた。
ただごとではない。
オスカルとしては、アンドレに出てほしくなかったし、アンドレもオスカルには車内に残っていてほしかった。
それで結局二人そろって車外に飛び出す羽目になった。
「武器だ。武器を取り上げろ!」
怒声がひびき、棍棒や鎌を持った群衆が襲いかかってきた。
オスカルとアンドレは互いのことが心配で、その場を逃げ去ることができない。
とりあえず自分がくい止めている間に相手を逃がしたいと思うばかりだ。
四方八方から振り下ろされる棍棒で、顔面と言わず背中といわず、あちこちに打撲傷ができていく。
切れたところから血もにじんでくる。
痛みで目を開けることが難しい。
やがてふたりの意識は遠のいていった。

アランが到着したのはまさにそんなときだった。
すぐに馬から下りてオスカルのもとに駆け寄った。
それから振り返って部下に指示を出す。
「あとを頼むぞ。発砲はするな!大暴動になる恐れがある」
「はい、連隊長!」
部下たちは騎乗のまま応対している。
敵より高い位置を取ることは鉄則である。
これで全体像もある程度見渡せる。
スウェーデン近衛隊のレベルは本当に高い。
アランは安心して、オスカルの救出に専念できることに感謝した。
これが衛兵隊なら、絶対に指揮官は現場を離れられない。

アランはオスカルを抱きかかえて路地裏に引っ張り込んだ。
アンドレもどこかに転がっているのだろうが、それは知ったことではない。
何よりもオスカル優先だ。
もうろうとしていたオスカルがかすかに目を開けた。
アランはすぐに、隊長、と言いかけたが、「フェ…ル…?」とオスカルの唇が動いたので、あわてて口をつぐんだ。
そうだ、おれはフェルゼン伯爵だったんだ、と思い出した。
オスカルはそこにフェルゼンがいることを訝しがるかと思いきや、すぐに立ち上がり「アンドレは?」と聞いてきた。
フェルゼン伯爵のことはどうでもいいらしい。
スウェーデン近衛隊の部下の話では、伯爵はわざわざ隊長に別れの挨拶に来たそうだが、なんだか気の毒な話である。
そのとき、アランは後ろから思い切り腕を捕まれた。
暴徒が戻ってきたか?と振り向くと、自分の顔があった。
えっ?おれ?
あっ、フェルゼン伯爵だ。
思うや否や、頭部に衝撃が走った。
そして暫しの空白時間…
何回目だろう…

「やっと見つけた…。よくもまあ、わたしの身代わりなど…。それにしてもオスカル、どうかしてるぞ。あんな馬車でパリに乗り込むなどとは…」
相当石頭らしく、いや、おそらく慣れであろうか、フェルゼンは本日3度目の強打にもかかわらず、平気な顔でオスカルをたしなめた。
完全に自分を取り戻している。
久しぶりにオスカルより優位に立てて、悦に入っている感すらある。
一方でアランはまだ意識が混濁したままだ。
なにせアランも今日3度目の衝突なのだし、何より初心者なのだから、無理ないことである。
そして、二人の男の入れ替わりなど眼中にないオスカルは、目の前のフェルゼンを怒鳴りつけた。
「アンドレは?アンドレがまだあの中にいるんだ!」
役に立たない男どもに見切りをつけたオスカルは、渦中の騒動に戻ろうと走り始めた。
フェルゼンはあわててその腕をつかんだ。
「し、しずかに!こんなところで命を落としたいか!」
「離せ!」
オスカルはその腕をふりほどこうと必死でもがいてくる。
「アンドレが…!わ…わたしのアンドレ…!!」
オスカルの悲鳴のような声が突き抜けた。

あたりが静寂に包まれた。
「わたしの…アンドレ!?」
フェルゼンが小さな声で復唱した。
意識が戻りかけたアランの脳裏にも、その言葉が反響した。
「わたしの…アンドレ…」
驚く男二人よりも、さらに驚いているのは、言葉を発したオスカル本人だった。
あ…と小さくつぶやいたきり黙り込んでしまった。
フェルゼンはすべて理解した。
「よし!そこで待ってろ。アラン、向かいの路地裏に辻馬車がいる。アンドレを救い出したら二人をそれに乗せろ。いいな?」
水を得た魚のようだ。
次々と指示を出す。
さすが、本物の連隊長だ。
「辻馬車の御者には、料金をはずむと言え!質素でみすぼらしいが、よく走るやつだ」
先ほどまでアランが乗っていた馬に飛び乗ると、フェルゼンは暴徒のただ中に乗り込んで行った。
自分が自分に戻れた実感がわき、おのずと昂揚してくる。
まだ暴行を受けているであろうアンドレから、少しでも民衆を引き離さねばならない。
フェルゼンは大声で叫んだ。
「暴民ども!!耳の穴かっぽじいてしかと聞け!!」
アランから戻ったばかりで、庶民言葉が抜けきらないが、大声で叫ぶには都合のいい言葉だ。
「わが名は…わが名はハンス・アクセル・フォン・フェルゼン!」
ああ、堂々と名乗れるこの快感!
アンドレになったり、アランになったり、とんでもない騒動に巻き込まれたが、ようやく自分を取り戻したのだ。
フェルゼンは不覚にも泣きそうであった。

案の定、王妃の愛人の登場に、市民の目は釘付けになった。
フェルゼンが馬で移動すると、その後ろをなだれを打って追いかけていく。
わざと遠くへ馬を駆り、暴動現場から群衆を引き離す作戦だ。
その間にオスカルはアンドレを、アランは辻馬車を探しに走った。
アンドレはすぐに見つかった。
路上で、ボロボロになって横たわっていた。
ひどい怪我だ。
ほとんど意識もない。
オスカルはその身体を必死で抱き起こした。
アンドレ、アンドレ…繰り返し耳元で名前を呼ぶ。
しっかりしてくれ、ゆるしてくれ
左目に続いて、全身に傷を負ってしまった。
フェルゼンの叱責が痛い。
自分の不注意だ。
「隊長、辻馬車です!」
アランが辻馬車を連れてきた。
御者はうさんくさそうにアランを見つめていたが、オスカルの胸元に輝く階級章を見て、ころっと態度をかえた。
「こちらの旦那が踏み倒した分も払ってくれるんなら、乗ってくれてもかまいませんぜ」
手をすり、愛想笑いまでしている。
なんのことかわからないが、とにかく質素でみすぼらしい辻馬車が目の前にあるのだ。
乗らない手はない。
「金はいくらでも払う、とにかくいそいでベルサイユまで行ってくれ!」
オスカルはアンドレに肩を貸したまま、御者に頼んだ。
パリの留守部隊のほうが近いが、あそこではアンドレを寝かせられない。
自邸で手厚く看病しなければ…。
「アンドレ、大丈夫か?足下が見えるか?」
大きいアンドレの体躯を下から支え、馬車に乗り込むと振り返ってアランに命令した。
「パリの留守部隊に行って事情を説明しておいてくれ、始末書は後日書く」
アランは、黙ってうなずくと、外から扉をしめてくれた。
「前は…こんなではなかった… フェルゼンをあんなところに残し逃げられるなんて…」
アンドレの傷だらけの顔を見つめる。
馬車は飛ぶように走り出した。
「いまは…ああ…いまは…」
どうなのか。
オスカルは自問自答する。
答えはまだ出ない。
けれど、明日ジェローデルに話をしなければ、ということはわかった。
結婚話はご破算だ。

「わたしの…アンドレ…か」
小さくなる馬車の影を追いながら、アランはそっとつぶやいてみた。
フン…!
なんのこった!
舌打ちしか出てこない。
アホらしい…。
なんという日だろう。
突然アンドレになったり、フェルゼンになったり…。
訳がわからない。
おれが何をしたってんだ…。
ぼやきながら留守部隊を目指した。
ふと、道路沿いの家の窓ガラスに写る自分を見る。
紛れもなくアランだ。
だが、軍服を着ていない。
剣も持っていない。
あのスウェーデン人野郎、なんでこんな格好でうろついてやがったんだ!
スウェーデン近衛隊の軍服は良い仕立てだった。
動きやすく、軽く、戦うための工夫を随所に感じた。
いつか…いつか自分も、馬上で指揮を取るなどということがあるだろうか…。
アランはニヤリと笑い、歩く速度を上げた。

群衆を引きつけるだけ引きつけたフェルゼンは、それから思い切り速度を上げた。
部下たちも、どっとついてくる。
とりあえず全速力でパリを出よう。
徒歩の市民たちは、さすがにあきらめて解散するだろう。
散々な日だったが、最後には元に戻れたし、オスカルに説教もできた。
そして思わぬオスカルの本心も聞くことができた。
よりによってわたしの前で愛の告白とは恐れ入る。
だいたいわたしとアランが聞いたところでどうなるものでもないだろう。
肝心のアンドレが聞いていないのだから…
それに、オスカル自身があれが愛の告白だと気づいていないようでもある。
なかなか面倒くさい性格だな、オスカルは…。
そう思うと笑みさえこぼれてくる。
ようやくパリ郊外に出た。
次に来るのはいつになるだろう。
それまでに平和なパリに戻ってくれればいいが。
それはもはや奇跡でしかない。
フェルゼンは胸の前で十字を切った。









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パリの奇跡

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