オスカルはすっとその場で立ち上がり、返礼した。
長いブランクを感じさせない美しい敬礼であった。
軍服の将校であるアランと、私服の一般人であるオスカルだが、あくまでも上位者はオスカルであり、二人は無言のまま互いにその関係を維持していた。
ノエルが目をパチクリとさせて見慣れぬポーズを取る母を見つめ、同じくミカエルも蒼い瞳を見開いて将校を凝視した。
それから双子はそろって父親に解説を求める眼差しを向けた。
アンドレはフッと小さく笑い声を漏らすと手招きで子どもたちを呼び寄せ、次にアランに声をかけた。
「久しぶりだな、アラン。とりあえずこちらに上がってこい。ノエルとミカエルはアゼルマにお客さんのお茶を持ってくるよう伝えておいで」
双子はそろって駆け出した。
その後ろ姿を見送って、オスカルは再び椅子に座った。
アランがオスカルと最後に会ったのは4カ月前だった。
国王と王妃の命を奪い、そしてロベスピエールとサン・ジュストの命を奪い、荒れ狂う世情のなか、革命の道筋はいまだ混沌として闇の中だった。
革命を後戻りさせるわけにはいかないが、年端もいかぬ少年を抹殺する必要も断じてない。
その一点を共通項として、アランはオスカルに協力し、王子救出に加担したのだった。
作戦は無事成功し、オスカルはノルマンディーに戻り、以後アランとは会ってはいなかった。
「パリではヴァンデミエールの反乱が制圧されたと聞いたばかりだ。今度はこちらで何かあったのか?」
オスカルが少し警戒しながらアランに尋ねた。
穏やかなノルマンディーも革命の争乱から免れることはできないのは至極当然だが、それでもパリでの反乱鎮圧に参加していたアランが、休む暇無く出向いて来なければならないほどの案件がおこったというのだろうか。
「いや…そういうわけでは…」
アランが口ごもった。
「タンプルから連れ出したお方について、確認しておきたかったもんで…」
オスカルの顔に一気に緊張が走った。
「一人目か?二人目か?」
「もちろん一人目です」
ルイ・シャルルのことだ。
言わずと知れたルイ17世。
処刑されたルイ16世とマリー・アントワネットの次男だ。
長らくタンプル塔に幽閉されていた。
そして6月に獄死したと発表された。
「案ずるな。すでにナポリだ」
オスカルがルイ・ジョゼフとともに考案したルイ・シャルル救出作戦は二段階あった。
まずはルイ・シャルルとルイ・ジョゼフ・ド・ブリエが密かに入れ替わる。
その後、時期を待って(これがかなりの長期間で、この間にルイ・ジョゼフは相当衰弱してしまった)クリスが調合した秘密の水薬で仮死を装い、一旦埋葬されたルイ・ジョゼフを掘り返し、助け出したのだ。
従って最初に連れ出されたのが本物の王子で、二人目は替え玉だ。
そして本物の王子はバルトリ侯爵によってナポリへと移され、マリー・アントワネットの姉であるナポリ王妃の庇護下に入っている。
「今回の反乱は、マリー・テレーズ王女釈放が契機でした。それに便乗して王党派が画策したってわけです。王女ですらこうなる、まして王子が生きているとなれば、何が起きるかわからない」
「なるほどな。第二の革命が起きるかもしれん」
アランはコクリとうなずいた。
「こればっかりは下手に手紙で確認することもできないんでね…。万一それが誰かの手に渡ったら、一巻の終わりってことですから」
「そうだな。王党派に渡っても、革命政府に渡っても…」
彼らは血眼になって王子を探すだろう。
そして混乱を極めることになる。
「だから、こうして直接確認に来たんです」
アランの真剣な眼差しに、オスカルは胸が詰まった。
徹底的に革命支持派であるアラン、バスティーユの英雄であるアラン。
その彼に王子救出の片棒を担がせてしまったのだ。
もし事が露見すれば、命はない。
「おまえにも危険な橋を渡らせてしまった。すまなかった」
頭を下げるオスカルに今度はアランが言葉に詰まった。
本当は、ルイ・シャルルのことなどどうでもよかった。
もちろん死んでいいとは思わなかったが、自分たちとはかけ離れた存在であったため緊迫感はさほどなかった。
それでも救出に手を貸したのは、ただ目の前のこの人に頼まれたからだった。
絶対に否とは言えなかった。
一生分の片思い。
その相手の頼みなら、聞かないわけにはいかない。
だから、動いた。
そして成功し感謝された。
だが、それを喜ぶ暇もなく、この人はアンドレとともにパリを去った。
あしかけ3年、離れて暮らした子どもたちと、再び共に暮らすために…。
そして残されたアランの人生は大きな転機を迎えていた。
腐りきった革命政府高官。
私財を貯え、日々豪奢な生活に埋没する総裁とその一派。
革命とはなんだったのか。
こんな日々のために自分たちは命をかけたのか。
総裁たちと国王と、何ほどの差があるというのか。
その思いを引きずりながら過ごす軍人としての日々の中で、ナポレオンに出会ったのだ。
まだ26才の青年だ。
田舎もので野暮で、だが冷徹で明晰な頭脳を持っている。
その男が、アランを副官にと言ってきた。
すぐに諾とは言えなかった。
なぜならば自分にとっての上官はただ1人と思っていたからだ。
世の中を斜めに見ていた自分を目覚めさせ引き上げてくれた衛兵隊長。
だが、その人はもう二度と軍籍に戻ることはない。
ならば…。
アランは進むべき道を求めてやって来たのだ。
今、その唯一の上官が、危険な目に遭わせてすまなかったと頭を下げている。
アランはあわてて首を振った。
「あれくらい、なんでもありません。危険でも何でもない」
妹のディアンヌとかつての仲間フランソワ・アルマンを偽装夫婦としてルイ・シャルルの世話役に推挙した。
それだけのことだ。
「さすが歴戦の勇者は言うことが違う。ヴァンデミエールでは大変な活躍だったそうではないか。ちょっとその話を聞かせてくれ」
オスカルはアランに座るよう促した。
「ナポレオンとはどんな男だ?」
そう話をふり、あとは嬉々として戦闘状況が語られるのを待っている。
少しも変わらない。
隣で微笑むアンドレがいることさえ、何も変わってはいない。
アランはやむなく、ナポレオンとヴァンデミエールの反乱について語り始めた。
オスカルの瞳が嫌になるほど生き生きとしていた。
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