酒 場
「白山羊亭」という居酒屋がどうやら一班の行きつけらしい。
オスカルが想像していたほどいかがわしい雰囲気ではなかった。
若い女が酒をつぎにはくるものの、いかにも商売女、という感じではなく、むしろ最近田舎
から出てきたばかりの初々しさが残るものもいて、ちょっと一班の連中を見直した。
オスカルは目立ってはいけないとのアンドレの配慮で、周囲につばの出た帽子をかぶっ
て、金髪を中に押し込んでいた。
そういう姿が新鮮で、自分でもうきうきした。
アランたちも、はじめに顔を合わせたときは、キョトンとしていた。
隣にアンドレがいなかったらわかりづらかったな、と言ったほどだ。
おまえたちはわたしを、金髪とアンドレだけで識別しているのか…と、少々情けなかった
が、それと察したアンドレが
「こいつらは俺のことも、おまえと身長だけで見分けてるぞ」
と言ってくれたので、そんなものか、と納得することにした。
集まったメンバーは1班12名のうち半分の6名、アラン、フランソワ、ジャン、ミシェル、ピ
エール、ラサールとオスカル、アンドレだった。
あとの者は、故郷へ帰ったり、妻子持ちで自由がきかなかったり、ということで断腸の思
いで欠席だ、と幹事らしくフランソワが説明してくれた。
注文はアンドレが適当にした。
酒もどんどん持ってこいとアランが怒鳴ったから、次々にテーブルに置かれたが、オスカ
ルは、アンドレにしっかりと防波堤を築かれ、乾杯の一杯から次へすすませてもらえなか
った。
「せっかくこんなところまで来て、もう少し飲ませてくれたっていいだろう」
と、すねてみせたが、
「こんなところだからこそ、飲ませるわけにはいかない」
と返された。
「あーら、こんなところとはご挨拶ね。アンドレ、随分久しぶりじゃない?」
見上げると、新しい瓶を持った店の女が立っていた。
「サービスしてあげようと思ったのに」
随分あか抜けた感じの女だ。
「ナタリー!」
ミシェルがうれしそうに席をつめて、自分の隣に座らせた。
ちょうどアンドレの向かいになる。
「しばらく寝込んでたんだって?この人たちから聞いて心配してたのよ。治ったらまたすぐ
きてくれるかと思ったのに、ご無沙汰だったわね」
ときれいに化粧した顔をまっすぐアンドレに向けて、彼のグラスに酒をついだ。
即座にオスカルはナタリーの上から下までを観察する。
髪は黒、中肉中背、瞳も黒で挑戦的、声はやや低い。
着ているのは、色調を押さえて黒を中心に所々に赤いフリルをあしらったドレス。
そして間違いなくとびきりの美人だ。
「こっちの人は新顔ね。やっぱり衛兵隊の人?」
オスカルに向けられた瞳は生き生きと輝いており、人生を楽しんでいるのが初対面でも
伝わってくる。
オスカルの正体がばれると何かとややこしいので、店に入る前に口裏はあわせてあった。
「ああ。別の中隊から移ってきたばかりの小隊長どのだ。今日は歓迎会ってわけさ」
と、アランが答えた。
こうしておけば、うっかり隊長と呼んでもあやしまれない。
無論、アンドレの知恵だ。
「へえ、男にしておくのはもったいないくらいきれいな人ね」
と、ナタリーはうまくだまされてくれた。
「ねえ、小隊長さん、お願いがあるんだけど…」
「何か?」
「席をかわってほしいの。アンドレの隣」
「…。なぜ?」
我ながら間の抜けた問いだと思った。
「ナタリーはアンドレがお気に入りなんです。いっつも隣に座りにくるんだよな?」
と、フランソワが教えてくれた。
よかろう。
この際だ。
アンドレがどうやって女をくどくのか、とくと見てやる。
「これは失敬。さあどうぞ」
にこやかに席を立ち、オスカルはミシェルの隣へ、そしてナタリーはアンドレの隣に座った。
アンドレの隣から向かいに席をかわると、絶好の観察ポジションだった。
しかも、ミシェルとは反対の隣に座るフランソワが気を利かして、どんどん酌をしてくれる。
これはアンドレの隣よりは面白そうだ。
当のアンドレはいかにも困惑した表情をしている。
それはそうだろう。
最愛の女性が、しかも、相思相愛の女性が、真っ正面から、自分を見ている。
熱く甘いまなざしなら結構なことだが、女をどうくどくか見極めようというのだから、熱さの
種類が違う。
ここは開き直るしかないな、とアンドレは腹をくくった。
どのみち、オスカルは、俺の言い分より、自分の見たことしか信じないのだから、いつも
通りにふるまえばいいのだ。
くどき上手というのは、フランソワたちの大きな誤解で、自分はいっぺんだって、オスカル
以外の女を自分からくどいたことはないのだから。
ナタリーが隣に座るのはいつものことだし、人気者の彼女はそのうち、席を立って他のテ
ーブルに移っていくだろう。
なにもあたふたすることはないのだ。
ナタリーの酌で、とりあえず一杯飲み干すと、アンドレは、ゆっくりと店の中を見渡した。
オスカルが、ナタリーのついでくれるグラスに毒でも入れたそうに見ているのは、この際
無視した。
寒風の吹きすさぶ今日のような夜は、仕事帰りの荒くれ者が多い。
もとよりそれほど柄の悪い店ではないが、眉をひそめたくなるほど大声でわめいている
一団がいて、それはそれで酒場らしくて賑やかでよいのだが、オスカルを連れてきている
のだから、長居はしないのが利口だな、とアンドレは思った。
そのうるさい連中が、追加の酒を持ってきたまだ新入りの若い女をからかっている。
たしか、以前来たとき、初顔だからよろしくと言っていたシモーヌだ。
それきり、自分は寝込んでしまい、2ヶ月余り来ていなかったが、田舎からでてきたばか
りで、客あしらいに慣れていないのが初々しいと同時に危なっかしかった。
ただからかうだけなら放っておけるが、かなり品のない言葉が浴びせられ、直接身体に
手を出すものもいて、シモーヌが途方に暮れている。
ナタリーに空になったグラスに酒をついでもらったアンドレは、飲もうとして、手をすべらせた。
大きな音とともにグラスが床に砕け散った。
「アンドレ!」
オスカルが叫び、アランもびっくりして立ち上がった。
「ああ、大丈夫だ。手がすべっただけだ。シモーヌ、悪いな、片づけてくれないか」
アンドレは離れたところにいるシモーヌに声をかけた。
シモーヌがとんできて、グラスの破片を拾い始めた。
状況が状況なだけにシモーヌにからんでいた連中もあきらめたようだ。
注意深く破片を全部集めてシモーヌは下がっていった。
「気をつけろよ。ちゃんと手元が見えてるのか?」
とアランが聞いた。
「もちろんだ」
と答えながら、オスカルの方を見ると、アランと同じことが聞きたいと顔に書いてあった。
余計な心配をかけてしまったな、と思ったが、今は説明することができない。
「アンドレ、わざとやったわね」
ナタリーが肘でアンドレをこづいた。
「さっきからシモーヌがからまれて、いつ助けにいこうかと思ってたんだけど、先を越され
ちゃったわ」
「ナタリー、俺は別に…」
「わかってるわよ。わかる人にはわかるのよ。あたしはわかってる。シモーヌもきっとわか
ったわね」
ナタリーの言葉が終わらないうちに、シモーヌがぞうきんを持って戻ってきた。
「アンドレ、あの、助けてくれてありがとう」
床に膝をつき、少し目尻に涙をうるませながら、シモーヌがアンドレのグラスからこぼれ
た酒をふいた。
「こちらこそ、後かたづけを任せてしまって、悪かったね」
優しいアンドレの言葉にシモーヌは大きく首を振り、ごしごしと手の甲で涙をこすると、こ
ぼれんばかりの笑顔で立ち上がった。
「ほらね」
とナタリーが片眼をつぶった。
「シモーヌ、あの連中はあたしにまかせて。あんたはしばらく奥の手伝いをしてるといいわ」
と言って立ち上がると、ナタリーはさっきより一層賑やかになっている集団の中に入って
いった。
「シモーヌを助けるためにわざとグラスを落としたんだ」
ようやく事態が飲み込めた、という風にラサールがつぶやいた。
「ええ、そうだったの?」
さらに飲み込みの悪いジャンが驚いてアンドレを見つめた。
そうか、そいういことか。
オスカルはたった今目の前で繰り広げられた光景から理解した。
くどいているわけではないのだ。
無意識にやっていることが、相手の女には、これ以上ないくどきに映るのだ。
なぜなら彼女らのまわりにはそういう男性がめったにいないから。
さりげない優しさが強烈な印象を残すのだ。
だが、物心ついたときからそれを当たり前のように受けてきたわたしは、気づきようもない。
それはめったにないものではなく、いつもあるもの、あって当然のものだったから…。
どうしようもないな…。
いったい誰が悪いんだか…。
あまりに自然なおまえのせいか?
いや、やはり気づかなかったわたしのせいか…。
「隊長、酒がのこってますよ。ささ、ぐーっとぐーっと!」
ミシェルとフランソワが両側からけしかけてきた。
そうだな、せっかくこいつらと来たんだ。
楽しまなくては…。
オスカルはなみなみとつがれたグラスを一気に空けた。
「ひぇー!見事な飲みっぷり」
「じゃあ、今度は俺のも…」
とフランソワを押しのけるようにしてジャンがついだ。
「よお!おめーら大概にしとけよ」
突然アランが口を開いた。
手酌で勢いよく飲みながら、ギロッとジャンをにらみつけると
「隊長はこの間から顔色が悪くて、ようやく戻ってきたとこだろう」
と言い放った。
アンドレとオスカルの動きが一瞬止まった。
ぶっきらぼうなその言い方は間違いなくアランだが、言ってる中身は完全に日頃のアンドレ
のものだ。
「酒場にきて、アンドレならともかくアランにたしなめられるとは…。わたしもヤキがまわったな」
なるべく冗談めかして言ったつもりだったが、アンドレには本心を見抜かれたようで、クスクスと笑いを押し殺している。
当のアランは、自分で自分の台詞に驚き、真っ赤な顔をして
「笑うな、アンドレ!笑うなってば!畜生!!」
と怒鳴ると、さらに手酌を重ねた。
そのアランの様子がいかにも滑稽で微笑ましく、明るい笑い声が周囲に満ちた。
気持ちの良い夜だったな。
アンドレが御す小さな馬車に一人乗り込んだオスカルは、被っていた帽子を脱ぎ、アンドレ
に留められたピンを次々とはずすと、髪をおろした。
器用なアンドレが自分の髪をとかしてくれているとき、体中に甘い疼きが押し寄せて、それを気取られないようにするのに、大変な精神力を要したことが思い出された。
シモーヌにナタリーか…。
今夜初めて出会った二人の女の顔が浮かぶ。
悪いが、わたしのアンドレは渡せない。
われながら埒もないことを考えているな、と思っているうちに心地よい眠気が襲ってきた。
馬車がとまり、
「オスカル、着いたぞ」
と、アンドレの声が聞こえるが、眼をあける気にならない。
「オスカル、オスカル。なんだ、眠ってしまったのか?仕方ないヤツだな」
扉が開き、アンドレの腕が自分を抱き取ったのがわかった。
車外の冷気と、アンドレの体温が同時に伝わる。
しっかりとした足取りでアンドレが歩いている。
以前もこんなことがあった、とオスカルは思った。
酒場からの帰り、やはりアンドレに抱かれて帰ったことが…。
あのときは大乱闘になって、めった打ちにされて、財布まですられて…。
フェルゼンのことが無性に腹立たしくてくやしくて情けなくて、胸一杯に消化しきれないもの
が詰まっていた。
それで眼があけられなかった。
自分以上やられたアンドレに抱かれているのはすまない、と思いながら、もうなにもかもど
うでもよくなっていたのだ。
すると、唇に暖かいものが舞い降りた。
熱っぽくて弾力があってすうようにしっとりとオスカルの唇をおしつつみしのびこんだ。
それは限りない愛情と優しさに満ち、オスカルは身じろぎもせず受け入れていた。
そして今、まさに今、同じように酒場からの帰り、アンドレに抱かれている。
アンドレは別邸の二階への階段を危なげなくのほり、オスカルの部屋の扉をあけ、寝台に
近づいた。
こうして抱いていると、昔を思い出す。
苦しむオスカルを見ていられなくて、思わずくちづけてしまったあの夜。
今、腕の中に眠るオスカルは苦しみからはほど遠く、安らかに満ち足りているようだ。
あのときのようにくちづけをしようか…。
だが、くちづけを落としておこしてしまうのがかわいそうで、何もせず、宝物のように大切に
そーっとおろしかけたとき、オスカルの瞳がぱっちりと開いた。
「お、起きたのか?いや、起きていたのか?」
だがアンドレの驚きには全く関知せずオスカルは尋ねた。
「おまえ、このままわたしをおろすのか?」
「え?」
まさかくちづけしようと思っていたことがばれていた?
「酒場の帰りにこうして抱いているのだ。何かすることがあるだろう」
まさかまさか、あの夜のことも知っていた?
思考がまとまらない。
「かつておまえがわたしにしるした刻印を、再び同じ場所に…」
薔薇のくちびるがアンドレをいざなった。
されるがままだったかつてと違い、今は返すすべを知っているオスカルは、アンドレの驚き
を、その熱っぽい弾力のある唇から優しくすいとった。
終わり