酒 場(U)
「白山羊亭」が急に賑やかになった。
どうやら路上での政治談義をそのまま店内に持ち込んできた一団がいるらしい。
騒々しい議論の中でも一際大きい声に、アランは聞き覚えがあった。
顔を上げると、案の定、ベルナール・シャトレだった。
向こうもちょうどこちらを見たため、しっかり目があった。
彼は、よう、と手を挙げながらにこやかに近づいてきた。
そして、立ちすくんだ。
いや、三歩は後ずさった。
なんとなれば、オスカルとアンドレを発見したからだ。
「ど、ど、ど…、どう…して…?」
瞳を大きく見開いている姿は、なぜかロザリーにそっくりだ。
夫婦も長く暮らすと似るらしい。
亡霊を見たようなベルナールに、とにかく座れと、アランがとなりのテーブルから椅子をひとつ持ってきてやった。
そして、記者仲間であろうベルナールの連れにちょっと借りるぜと声をかけた。
アランとベルナールの仲は有名だ。
一団は心得たとばかりに、少し離れた場所に席を取って、そのまま議論の続きを始めた。
「ノルマンディーにひっこんだんじゃなかったのか?」
ベルナールがようやく自分を取り戻した。
「そのとおりだ。」
オスカルはいたって平静だ。
懐かしさはあるが、場所柄をわきまえるだけの分別はある。
「じゃあ、なんでここにいる?」
「人間、色々事情というものがある。」
いくら信頼できる男でも、ベルナールにルイ・ジョゼフの話はできない。
誰が誰をどう利用するかわからない昨今だ。
「おまえら、2人ともこんなとこに出てきて、子供たちはどうしたんだ?おれのロザリーが育てた子供たちは?」
幸い、ベルナールの関心はロザリーが乳母をつとめた双子に行っている。
このまま話をこちらに向けておくのが賢明だ。
「案ずるな。ノルマンディーで留守番している。」
「置いてきたのか?」
「向こうにはわたしの姉がいる。心配ない。それよりおまえこそどうしているのだ?ロザリーからは、全然家に寄りつかないと手紙が来ているぞ。」
話の主導権を握る必要がある。
オスカルは反撃に出た。
痛いところをつかれたのだろう。
ベルナールは尋問を止めた。
そして、グラスの酒を飲み干した。
「帰っても誰もいない日が続いたんだ。その間に色々と行くところができるのは仕方がない。」
まるで帰宅が遅くなるのは、オスカルのせいだと言いたいようだ。
かなり飛躍しているが。
「それは順番が逆だろう。ロザリーは、おまえが帰ってこないから、ノルマンディーに来るのを躊躇しなかったと言っていたぞ。」
アンドレに事実を指摘され、ベルナールはまた言葉に詰まった。
実際、ロザリーのノルマンディー行きに気づいたのは一週間後だったのだ。
それを言われると返すべき言葉がないベルナールである。
「おい、ベルナール。ほかに行くところができたって、聞き捨てならないな。おまえ、そんな男だったのか?」
オスカルの声音が険悪になった。
ベルナールの父親は貴族で、母はその愛人だった。
その血をひいておまえも妻以外に…?
オスカルの疑惑がつのる。
「違う!違う!仕事仲間だよ。あとラソンヌ先生んとこだ。」
ベルナールは必死で否定した。
「隊長。おれが証人になります。ベルナールは本当にしょっちゅう先生のとこに来てましたから。」
ジャンが助け船を出してくれた。
彼は医師宅の雑用を請け負っている。
なかなか有力な証言だ。
「アランだって、証明してやれるよね?アランもひんぱんに来てるから。」
アランは無言で酒を飲んでいる。
関わりたくないというのが本音だろう。
「なんだ。みんな先生のお宅に入り浸ってたのか?」
アンドレが素朴な疑問を投げかけた。
ジャンは、そこで働いているのだから、当然だ。
アランも、一応母と妹が住み込むような形になっているから、実家がわりといえるだろう。
だが、ベルナールはどうして、と口に仕掛けて、オスカルはハッとした。
確かロザリーが書いてきた手紙にあった。
フランソワ・アルマンはディアンヌに恋心を抱いていて、たびたびやって来る、と。
では、ベルナールもひょっとしてディアンヌに…?
そういえば、オスカルは初対面のディアンヌにロザリーの面影を見た。
2人はどことなく似ているのだ。
妻の長期不在の間にベルナールは、妻に似たディアンヌに思いを寄せたのか?
オスカルの想像が果てしなく広がっていく。
無関心を装っていたアランもどうやら同じ想像に行き着いたらしい。
「おい、ベルナール!おまえ、ひょっとしてうちのディアンヌに…?」
「えーっ??」
フランソワが椅子を蹴倒して立ち上がった。
「そうなの?!」
日頃おとなしいフランソワの形相が変わっている。
突然の恋敵の出現に我を忘れたらしい。
「馬鹿野郎!そんなわけないだろう!いい加減にしろ!!」
ついにベルナールが切れた。
「おれが、ロザリー以外に誰とどうするっていうんだ?!おまえこそ、ノルマンディーでおれの息子の父親面しやがって…!まさかロザリーの亭主がわりまでしたんじゃないだろうな?!アンドレ、どうなんだ?」
なぜかベルナールの怒りの矛先はアンドレに向かった。
常日頃の鬱憤が一切合切込められている。
「冗談ではない!フランソワは息子のようにかわいがったが、ロザリーとそんな風なことは絶対にない!!馬鹿なことを言うな!!」
あらぬ疑いにアンドレも逆上した。
が、その数倍逆上したのがオスカルだった。
「聞き捨てならんぞ、ベルナール!アンドレに限ってそんな間違いはあり得ない。あくまで言い張るなら、決闘だ。」
オスカルはすでに立ち上がっている。
言うに事欠いて、アンドレとロザリーの仲を疑うとは…!
自分の鼻先でそんな馬鹿げた事態が発生するなどと…。
オスカルは怒髪天を衝いていた。
同様に怒り心頭のベルナールも立ち上がった。
両者、湯気を出さんばかりのにらみ合いになった。
「ねえ、今度はなあに?よほど男同士の見つめ合いが好きなのね?」
割って入ったのはナタリーだった。
にらみ合いを見つめ合いとうまく変換するあたり、修羅場慣れしている。
「何があったか知らないけど、さあ、2人とも座って。いい男が台無しよ。」
ナタリーはオスカルのグラスに酒をつぎ、ついでベルナールのグラスにも酒を注いだ。
そしてにっこりと笑った。
「さっ、グラスを持って。」
にらみ合ったまま、2人はグラスを握った。
「じゃあ、乾杯!ほら、みんなも一緒に…。」
ナタリーにうながされて、アンドレやアランもグラスを取った。
そして、口々に乾杯と小さく言うと、全員でグラスを空けた。
「ほーっ…。」
誰からともなくため息が漏れた。
「結局のところ、原因は何なの?」
ナタリーが静かに皆を見回した。
が、誰も答えられない。
どうしてこうなったのだろう。
確か、ベルナールが家に帰らないという話になって、それはロザリーが長期不在だったからだと弁解して、他に行くところができたと言ったら、それがラソンヌ医師宅で、それならディアンヌが目当てか、と疑われて、アンドレこそロザリーとどうだったのか、と問い返したらオスカルがブチ切れて…。
思えばすべてが邪推であった。
疑心暗鬼から、あらぬ方面に想像が行ってしまって、収拾がつかなくなったのだ。
「とにかく、今夜はもう帰れ、ベルナール。ロザリーが待ってるんだろ?きっと心配してるぜ。安心させてやりな。」
アランがベルナールの肩をたたいた。
「そうだ。アランの言うとおりだ。こんなところで政治談義も結構だが、もうちょっと妻や子どもに目をむけんと、おまえ、本当に見捨てられるぞ。」
オスカルが部下に訓辞するように説教を始めた。
ロザリーが家出してきたらいつでも引き受ける気でいるのだ。
子どもに目を向けろって、それをあなたが言いますか?
アランは、ノルマンディーに子どもを置いてきたというオスカルをまじまじと見つめてしまった。
それから気づいた。
オスカルにはは絶対に見捨てられない自信があるのだと。
アンドレがオスカルを見捨てるはずがないという強固で堅牢な自信。
だから、この人は少しも変わらないのだ。
妻になろうが母になろうが、根っこが変わっていないから、表面も変わらない。
そしてこの人も、決してアンドレを見捨てないのだろう。
「ベルナール、おれも帰るわ。」
アランはゆっくりと立ち上がった。
もういい時間だ。
そろそろお開きということになり、ナタリーが勘定書を持ってきた。
アンドレは迷惑料だと言って、少し多めに支払った。
「では、また。」
オスカルが戸口で皆に言った。
皆も「いつか、また。」と返した。
そして、オスカルとアンドレは呼んでおいた辻馬車に乗り込んだ。
その姿をアランは黙って見送った。
アンドレが心底うらやましく、憎らしかった。
(2)