酒  場(U)

「白山羊亭」はパリの下町の以前と同じ場所に、以前と同じ風情であった。
酒の種類も変わっていなかったし、料理の味も落ちてはいなかった。
それは、この動乱の時代の中では希有のことと言って良かった。
ナタリーは相変わらず美しく、華やかに酒を注いでまわっていた。
そして、シモーヌは店の表には出ず、厨房で料理を担当していた。
ここの店主は人の配置がうまいな、とアンドレがつぶやくと、アランもめずらしく同調した。
「アンドレはともかく、アランが言うのなら本物だな。」
オスカルが、会話に割り込んだ。
「なんと言ってもアランは、指導者養成の専門家だからな。」

オスカルには皮肉のつもりはまったくない。
アランの軍人としての資質と業績に対して心から敬意を払っているつもりだ。
にもかかわらず賞賛されたはずのアランは、恨めしげな目つきでかつての上官を見ると、小さくため息をつき、一番奥に席を取った。
だが、その抵抗は空しかった。
オスカルはアランの胸中に寸分の配慮も示さず、ズカズカと近づくや、アランの臨席の椅子を引いた。
今度こそアランは露骨に嫌な顔をしたが、それもまたオスカルには完全に無視された。
豪華な金髪がアランの鼻先をかすめて、息が止まりそうだ。
もういっそのこと本当に息が止まってしまえばどんなに楽だろう。
アランの切ない思いは、皮肉なことに、アンドレだけが理解していた。

ルイ・ジョゼフのためにベルサイユに出てきて一週間目の夜である。
サン・クルー宮殿への伺候は一昨日だった。
万事うまくいった。
その成功は、かかってフェルゼンとアランの尽力の賜だった。
フェルゼンとはすでにジャルジェ邸で晩餐を共にして、充分に感謝の意を表した。
フェルゼンは双子の絵を見て、感嘆したり驚愕したりするのに忙しく、感謝されていることに気づかなかったかもしれないが、オスカルとしては、義理を果たしたつもりでいる。
とすれば、次いでアランにもなにがしかの答礼が必要であるのは、元上官として当然のことだ。
オスカルは、アンドレに一席設けるよう指示した。

アランは、3人での酒席などまっぴらだと思い、丁重に辞退したが、遠慮するなとあえなく押し切られ、仕方なくフランソワと連絡を取って、かつての1班の連中に声をかけてもらうことで、ささやかな抵抗を試みた。
すると、このアランの思いつきは、オスカルに大好評で、久しぶりに部下の面々に会えると知ったオスカルは、アンドレが惚れ直すほど生き生きとした顔になった。
そのオスカルの顔がまともに横にあるのだ。
アランの心中察するに余りあるものがあった。

実は、ルイ・ジョゼフの宮殿伺候の前に一度、アランはジャルジェ家を訪問している。
だが、このときは作戦遂行のための打ち合わせであったので、アンドレのほかにニコレットとルイ・ジョゼフも同席しており、いたって事務的なものだった。
私的な会話はほとんどなく、その分、アランも個人的な感情にとらわれることなく、自身の計画を説明することに専念できたのだ。
だが、今夜は、完全に私的な、個人的な集まりだ。
メンバーこそ、いわゆるかつての仕事仲間だが、今は完全に別世界で暮らしている。
靴屋になったフランソワ、ラソンヌ医師宅の雑用係をしているジャン、そしてアランの推挙で衛兵隊の新兵教育係になったラサールである。
前回この店に来た時は、ピエールとミシェルもいたが、今夜は都合がつかなかったとのことで、総勢6人である。
アラン以外、そろって嬉しそうなのも気にくわない。

だいたい隣に座るこの人が、すでに二児の母だなどと誰が信じられよう。
前回この店に来た時と、何一つ変わっていない。
髪も瞳も肢体も口ぶりも、すべてが以前のままである。
こうなったら、とにかく見ないことだ。
見るから息ができないのだ。
アランは固く心に誓い、壁に視線を移して、グッと一杯飲み干した。
「おお、いいぞ、アラン!見事な飲みっぷりだ。」
オスカルは心底賞賛し、手ずから酌をしにきた。
しかたなくアランは視線をオスカルに戻した。
そして、自分の正面にアンドレが座っていることに気づいた。
壁際から見ると、アラン、オスカル、フランソワ。
アランの向かい側の壁際からアンドレ、そしてジャン、ラサール。
いつの間にか、そう席が決まって、それぞれにグラスを持っていた。

「アラン、乾杯もせずに飲んじまうなんて、ひどいじゃないか。」
ジャンが口をとがらせて抗議した。
「ああ、すまん…。」
あまりに素直に謝罪され、ジャンが拍子抜けしている。
「かまわん。飲みたいものが飲みたい時に飲む。それでいいだろう。」
オスカルが上機嫌でアランのフォローに入った。
「だが、ジャンの言うのももっともだ。とりあえず、みなで再会を祝して乾杯といこう。」
混乱しはじめた会話を、恒例のようにアンドレがすくい取り、オスカルの発声で乾杯となった。

懐かしい顔に自然と空気がなごむ。
今でこそおのおの立場は違うが、皆ともにバスティーユの戦闘を戦い抜いた勇者たちである。
思えば、オスカルとアンドレがアラン以外の面々と顔を合わせたのは、かの7月14日以来なのだ。
アランとて、前回の再会は再会とも呼べぬ代物だったのだから、これが本当の再会だ。
皆、当然のようにバスティーユへと思いを馳せた。
そして、思い出した。
最後の最後に知った真実。
クリスが叫んだ驚愕の台詞。
「お腹の赤ちゃんが死んでしまうわ!」

オスカルとアンドレをのぞく4人の男達は、その記憶を再生して、そろって黙り込んだ。
ロザリーを通じてラソンヌ家には、ノルマンディーからの報告が定期的に届いていた。
だから、ラソンヌ家で働くジャンは当然、オスカルの双子出産を知っていた。
また、母と妹がラソンヌ家で仕事をしているアランは、2人からいやというほど聞かされていた。
フランソワとラサールも、すでにジャンからこの情報を仕入れている。
だが…。
やはり信じられない。
この人が子どもを産むなんて…。
しかも、この男の子どもを…。
4人の視線はいつしかオスカルからアンドレに移っていった。
それに気づいたアンドレが、目を丸くして、順番に見つめ帰していく。

「ねえ、男同士でそんなに見つめ合って、何か楽しい?」
ナタリーが新しい酒瓶を持って立っていた。
「今さらながらアンドレのことを、いい男だなあ、とひがんでいるわけ?」
何も知らないナタリーが一発でツボをついた。
いい男かどうかはともかく、ひがんでいるというのは当たりである。
アンドレがグラスを手にしたまま少しむせた。
そんなアンドレをオスカルが、冷ややかに見た。
「マドモアゼル。ひがまれるとしたら、それはわたしだと思うのだが…。」
まっ青な瞳がナタリーにそそがれた。
漆黒のナタリーの瞳がまっすぐに見つめ返す。
「大変な自信家ね。」
「根拠がないわけではないと思うが…。」
「まあね…。あなたにくどかれて堕ちなければ女じゃないわ。」
「メルシー。」
「で?わたしをくどいてくれるわけ?」

ここでテンポのいい会話は途切れ、オスカルは黙り込んでしまった。
ナタリーの勝ちだ。
アンドレはナタリーに拍手を送りたかった。
いくらなんでもオスカルがここでナタリーをくどくことはできない。
妙なライバル意識をアンドレに発揮して、墓穴を掘ってしまった。
上機嫌だったオスカルの頬が心なしかふくれている。
アランは、その様子をあっけにとられて見ていた。
やっぱりオスカルが出産したというのは何かの間違いだ。
どこの世界に、夫に張り合って女をくどく妻がいるだろうか。
そんな母親が、どこにいるか。

「えーっと…。ナタリーはくどいてほしいのかな?」
絶妙の質問をしたのはラサールだった。
「だったら、おれ、喜んでくどかしてもらうけど…。」
ナタリーが、はじけるように笑い出した。
アランも、こらえきれず、クックッと喉の奥で声を殺している。
アンドレもついに笑い出した。
どう考えてもやはり滑稽な場面だった。
もはや笑うしかない。
だがラサールは真面目にナタリーに向き合っている。
ナタリーは、少し困った顔をしつつ、優しくラサールの言葉を聞いてやっていた。
「えーっと…。ナタリー、君は花のように美しいんだよ。だから、もったいないよ。」
ラサールは、スラスラと台詞を語り続ける。
何がもったいないのか、とつっこみかけて、フランソワが立ち上がった。
「おい、その台詞、前にアンドレがディアンヌに言ったものじゃないか?!」

アンドレの顔から笑みが消えた。
そういえば…。
失恋したディアンヌが窓から身を投げようとしたとき、アンドレが引き留めた。
そのとき、そんなことを言ったような…。
「ああ、そうだよ。この台詞。アンドレの実体験なんだろうね。おれ、いつも使わせてもらってるんだ。」
ラサールはアンドレを振り返ってウインクした。
「女をくどくのに人の言葉でするなよな。」
「まったくだ。情けないったらないぜ。」
ジャンとフランソワがうなずきあった。
「あのね。ラサール。お気持ちは嬉しいんだけど、わたし仕事があるからまた今度ゆっくり聞かせてもらうわ。」
ラサールの告白をうまくかわしてナタリーが奥のカウンターに戻っていった。
「ええ〜?!」
ラサールがかっくりとうなだれて椅子に座り込んだ。
「ちぇっ、せっかくのチャンスだったのに…。」
「また今度って言ってくれてたろ?それまでにしっかり口説き文句をアンドレに習っておくんだな。」
アランが立ち上がってラサールの横に行き、グラスに酒をついでやった。
背中をポンポンとたたかれて、ラサールはそれもそうかと気を取り直した。
「でもさ、見つめるたけで女が堕ちる隊長や、スラスラと言葉が出てくるアンドレと違って、おれは大変なんだよ。」
「おい、オスカルはともかく、おれはスラスラと女をくどいたりしたことはないぞ。」
アンドレが迷惑この上ない顔で抗議した。
こんな会話が続いたら、帰ってからのオスカルが恐ろしい。

「あれ、頼んでない料理がきてるよ。」
品数を数えていたジャンが、大きな盛り皿を指さした。
「ああ、それはシモーヌからだよ。アンドレにサービスだって。」
フランソワがその皿をアンドレの前に置いた。
「いいよなあ。」
「本当にいいよなあ。」
ラサールとジャンが皿とアンドレを交互に見つめている。
「ああ、わかったわかった。おまえ達が食えよ。」
アンドレが皿を2人の前に押しやった。
が、皿はオスカルによって再びアンドレの前に戻された。
「アンドレ、シモーヌがおまえにと言っているのだ。せめて一口でも食べなければ失礼だ。」

正論である。
料理担当になったシモーヌが、以前アンドレに助けられて、少なからずアンドレに好意を寄せていたことは、皆知っている。
アンドレは観念して、シモーヌの手料理を口にした。
「うまい。」
素直な感想だった。
それでは、とフランソワが手を出し、皆が次々と食して、皿はあっという間にカラになった。
だが、オスカルだけは口を付けなかった。
そのことに気づいたアランは、この人が妻とか、まして母とか、というのはやはり信じがたいものがあるが、女性という部分はあるのだと、思い知った。
そしてなんとも言えない複雑な感情を持てあましながら、手酌で酒を飲んだ。
目の前のアンドレが心底うらやましく、憎らしかった。




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