「アランは…?」
よく寝ていると思っていたオスカルは、小さなノックの音にしっかり気づいていた上、その音の主にも検討をつけていて、アンドレが戻って来るなり、用向きを尋ねてきた。
無論アンドレは、おふくろさんが来たことを知ってとんできたのだ、とだけ答えるつもりだった。
だが、蒼い瞳にまっすぐ見つめられると、隠し事をするのがなんとも卑怯に思えて、結局方針を変更した。


アランが、釈放の日、ベルナールに会いに行き、オスカルとベルナールとの間で結ばれた約束を聞いてしまったこと。
けれどもオスカルの除隊が釈放運動との引き替え条件であったことは、決して口外せず、仲間たちにはあくまで健康上の理由で通したいというアンドレの提案に賛成してくれたこと。
そして、そこまでしてくれたオスカルに報いる方法を、彼らしい乱暴なやり方ではあったが、今日アンドレに尋ねに来たのだということ。

アンドレは言葉を選びながら、順序立てて、ゆっくりと話した。
オスカルは時に目を閉じ、また時にうなずきながら、静かに聞いていた。

「信念に基づいて動け、と言ったら、わかった、と一言だけ答えて仲間の所に戻っていったよ」
アンドレは長い話の最後をそれでしめくくった。
「そうか…」
オスカルは短く答えた。
それから、フーッと一息吐いた。
「アランの立場からすれば、なぜ釈放されたかを疑問に思うのは当然だ。市民が動いたと聞かされて、ああそうですか、とすんなり納得するほど単純ではあるまい」
「そうかな?俺には単純以外の何者にも見えんが…」
アンドレは真っ赤な顔のアランを思い出して、冗談半分、本気半分で言った。
「はっはっは…。確かに…。根は単純だ。だが、人間を動かすことに関しては、秀でた才がある」

オスカルがパリの巡回中に倒れたとき、アランは急遽司令官になり、見事に役目を果たした。
多数の人が動くときには、必ず動かす人間がいることを彼は知っている。
だから、今回の市民のデモ行進も、きっと指導者がいたはずだと踏んだのだ。
そしてパンに入っていた切れ端から隠された真相をつきとめた。
観察力、洞察力、行動力のすべてにおいて軍人の面目躍如たるものがあり、オスカルには小気味良くすらあった。

一方、アランへの高評価とは対照的にベルナールには厳しい論評が口をついて出た。
「ベルナールは、思ったより口が軽いな。問い詰められてわたしの名前を出してしまうとは…」
オスカルが不愉快そうに顔をしかめた。
「おまえは、こういう事態を想定していなかった。だから口止めもしなかった。ベルナールはロザリーの前で格好をつけたかったんだろう」
アンドレはさりげなくベルナールに味方した。
寝食を惜しんでベルナールは奮闘してくれた。
そしてその結果釈放されたアランが、わざわざ礼を言いに訪ねてきたのだ。
嬉しくないはずがない。
得意げにアランに事の次第を語った彼をどうして責められるだろう。

「アランはベルナールに丸め込まれただろうな」
オスカルがニヤリと笑った。
「弁舌爽やか、自信たっぷりのベルナールにかかったら、大概のものは説得されてしまう。わたしが良い例だ」

部下を助けるたるめには、どんなことでも厭わないつもりだった。
ブイエ将軍を翻意させるために、国王に直訴する、という手だてもあった。
だが、王命違反の罪状では、相当な無理があることはあきらかだった。
だから、市民の力を頼んだ。
そしてこの場合、市民の力はベルナールなしには決して得られない。
そこで彼の弁舌にひっかかった。
交換条件は呑まざるを得なくなってしまっていた。

結局、妊娠が現実のものとなった今、除隊は避けられなかったわけだが、それでも、ベルナールにしてやられたのは事実だ。
負けず嫌いのオスカルはいかにもくやしそうだった。
歯噛みせんばかりのオスカルの様子にアンドレは考えた。
ベルナールの行動はすべてロザリーの意志から発していると知ったら、オスカルはどう思うだろう。
陶器商人に化けて「外国へ行け」と言いに来てくれたのは確かにベルナールだったが、行かせたのはロザリーだったはずだ。
今回も、単にアランたちを助けるだけでなく、これを利用してオスカルを安全な所へ移したいというロザリーの強い願望が働いたからこその交換条件だった。
ベルナールには悪いが、つまりは彼は女房にいいようにあやつられているだけなのだ。
にもかかわらず、その上オスカルに恨まれては気の毒というほかない。

「だんなさまも、奥さまも、除隊を望んでおられた。おまえにはつらいことだろうが、俺も無事除隊できたことを喜んでいる」
アンドレは静かに言った。
本心言えば、ベルナールに感謝したいくらいなのだ。
だが、それは秘した。
ソワソン夫人の忠告は、妻の精神の安定を図るのが夫の努め、というものだった。
彼は教えを実践に移すことにした。
「ソワソン夫人が帰りがけに言っていたのだが…」
アンドレはオスカルの機嫌を最大限に心地よくする言葉を続けた。
「かなり容体が安定してきているから、まもなく帰宅の許可が出るのではないか、と」

オスカルの顔がぱあーっとほころんだ。
「本当か?」
「ああ、本当だ。あくまでソワソン夫人の見立てだから、クリスの判断を仰がなければならないが、もう出血が止まっているなら、絶対安静から安静くらいにはなるかもしれないそうだ」

オスカルは満面の笑みを浮かべた。
「ようやくここから出られるのか。一歩も動かず何日過ぎた?わたしとしては超人的忍耐力で我慢したのだぞ。なんと立派でけなげけなことではないか!」
オスカルは至極当然のようにアンドレに同意を求めた。
アンドレは、内心、こっちの気苦労も超人的だったのだが、と思いながら、それは臆面にも出さず、ほほえんだ。
「本当によくがんばったな。見ていて感動したよ」

そうだろう、そうだろうとも…!
オスカルはアンドレの返答に満足げにうなずいた。
大声で叫びたいほど嬉しい。
思わずぎゅっと拳を握りしめた。
家に戻ってからやりたいことが、次々に脳裏に浮かぶ。
遠乗りに、酒盛に、とニコニコと指折り数えている姿に、アンドレは絶句した。

「オスカル」
先ほどとは打って変わった冷たい声でアンドレはオスカルの名前を呼んだ。
「なんだ?」
その声の調子にオスカルはいぶかしげにアンドレを見た。
「安静には違いないのだぞ。その指が数えたことは、すべて禁止だからな。遠乗りも酒盛りも…!」
アンドレはオスカルの折られた指をいちいち起こしながら言い渡した。

「…!」
今度はオスカルが絶句した。
「そうなのか?」
「あたりまえだ。おまえ、本当に自覚があるのか?」
アンドレは言っていて情けなくなってきた。
やはり目を離せない。
ここでは兵士の目もあるから、ある意味、それが抑止力となって、オスカルは出歩いたりすることはなかった。
だが、屋敷に戻れば…。
暗澹たる気分に浸った。

「アンドレ、おまえな、一度妊娠してみろ」
オスカルは支離滅裂、無茶苦茶の極みなことを言い出した。
「どんなに大変か…。どんなにつらいか。経験のないおまえに言われたくはない」
もし替われるものなら、俺もそうしたいよ、とアンドレは思った。
少なくともこんな心労はしなくてすむ。
自分なら医師のいいつけを素直に守る…。

「アンドレ、おまえ、今、本気で考えただろう?」
オスカルが鋭く言った。
「え?」
「本気で、自分だったらもっとおとなしくしていると思っただろう?」
「い…いや…」
図星をさされてアンドレは返事ができない。

「よくわかった」
「オ…ス…カル?」
「いいだろう。おまえの希望通りおとなしくしてやる」
「えっ…?」
本当だろうか?
アンドレはにわかに信じがたく、パチパチとせわしげに瞬いた。
「こればっかりは、どうがんばっても替われない。二人そろって逆の方が最善だと思っていても、神の教えには背けない」
その通りだ。
どうがんばってもアンドレが妊娠することはない。
「わたしは甘んじてこの教えを受け容れる」
受け容れるも何も、受け容れないなどということはあり得ないのだが、アンドレは言葉を挟まなかった。
「そのかわり、今後、わたしの希望は最大限に尊重しろ。いや、尊重ではたりない。絶対的にかなえろ」

神託のようだった。
しかもベルナールにされた仕返しのごとく、交換条件ときた。
江戸の敵を長崎で討つようなやり方だが、アンドレはにっこり微笑んだ。
「なんだ。そんなことか…。それなら今までだってずっとそうしてきたじゃないか。おやすいご用だ」
いかにも簡単に要求をのんだアンドレにオスカルも笑い出した。
「そうか…。そう言われればそうだな」
「そうだよ。何も目新しいことはない」
「そうだな」
「で、さしあたって、何か希望はあるのか?」
アンドレは気安く聞いてやった。

オスカルはしばらく考え、そして言った。
「ここを去るに当たって、きちんと兵士諸君に挨拶をしたい。その実現に向けて動いてくれ」
軽い気持ちで尋ねたアンドレは、瞬時に顔を引き締めた。
そうだった。
帰宅許可が出て、一旦帰宅すれば、もう二度とここに来ることはないのだ。
既に役職を離れたオスカルには、兵士の前に立つ資格はない。
だが、退任の挨拶ならば、ダグー大佐ももちろん承認してくれるだろう。
兵士達も、きっと整列してオスカルの挨拶を聞いてくれるに違いない。
あとはクリスの許可が出るかどうかだ。
再び軍服に身を包み、大勢の部下の前で演説をすることが、果たして今のオスカルに可能なのかどうか…。

「わかった。今から調整にかかる。そして明日クリスが来たら、判断を仰ごう。おまえの希望は、きっとかなえてやる」
アンドレの言葉にオスカルは嬉しそうにうなずいた。







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