クリスの目はキッとつり上がっていた。
「兵士達の前で挨拶なさりたいですって!」
声もややトーンが上がっている。
どうしてこう次から次へと突拍子もないことを思いつくのだろうか。
まあ、人生自体が異常だから、発想がはずれていくのは致し方ないのかもしれないが、自身の体は現在、人類始まって以来のもっともオーソドックスな原理にのっとって新たな命を育んでいるのだ。
せめてここでだけでは原則を踏襲してもらわなければ困る。

「本気でおっしゃっていますの?」
一旦、深呼吸をしてから、出来うる限り落ち着いた声でクリスは聞いた。
「どういう発想をすれば、これが冗談に聞こえるのだ?」
オスカルが逆に聞いてきた。
クリスの柳眉が一層釣り上がった。
この人にだけは、異常な発想だと言われたくはない。
だが、相手は妊婦だ。
クリスは、さらに大きく深呼吸をした。
「これは失礼いたしました。では、本気であるといたしまして…。」
ちらりとオスカルを見やってから言葉を継いだ。
「どの程度をお望みですか?」

目と目がぶつかった。
「どの程度とはどういう意味だろうか。言葉通りの意味だ。わたしの部下全員に退任の挨拶をしたい。それだけだ。」
クリスは利口な女だと思っていたが、やはり軍隊には疎いな、と内心思いつつ、オスカルは自分としてはかなり丁寧に返答してやった。

「オスカルさま、挨拶と申しましても色々ございます。たとえば、文書をしたため配布するとか、あるいは誰かに代読してもらう、ということもございましょう。」
クリスの方もまた、オスカルさまは非常に頭が良く切れるお方だが、ここ最近の生活の激変で勘所がにぶっておしまいになったのか、と内心思いながら、自分としては相当丁寧に説明した。

「代読だと?」
「はい。」
「それはいやだ。」
先の釈放祝賀会で、祝いの言葉をダグー大佐に代読してもらったばかりだ。
あれはまあ、祝いの酒の席だから、それでも我慢できたが、今度は違う。
退任なのだ。
別れの時なのだ。
自分が、ひとりひとりの顔を見て、自分の声で、彼らに思いを届けたい。

「では、部下の中から数人の代表を選び寝室によぶというのは?」
クリスは代替案を出した。
「話にならん。」
オスカルは即刻拒否した。

「ご自分で、直接となりますと、随分大きなお声をお出しになると拝察いたしますが…。」
「心配ない。大声で号令を出すのは慣れている。」
「そういう問題ではございません。」
「では何が問題だ?」
「腹部に大きな圧力がかかります。」
「あたりまえだ。腹から声を出さねば全員に届かないではないか。」
「その場合、また出血の危険性がございます。」

たたみかけるような論戦が展開された。
入口近くに立つアンドレは、固唾をのんで見守っている。
ジョゼフィーヌ相手のとき以上に緊迫したやりとりだ。
生まれたときからのつきあいの姉妹なら、互いを知り尽くしているから、なれ合っている面もあり、とどめをさすような台詞はまず出てこない。
だが、今日はそうではない。
クリスは医師として、患者の利益のために、断固譲る気配はない。
オスカルは、軍隊の司令官として、最後のけじめをつけるにあたって、一切の譲歩をする気がない。

本当なら自分がクリスを説得し、オスカルには希望がかなったという朗報だけを聞かせたかったのだが、アンドレはクリスにまったく相手にしてもらえなかった。
「直接話します!」
と断言し、クリスはアンドレを突き飛ばすようにして仮眠室に入り、オスカルを問い詰め始めたのだ。
アンドレは、女の闘いを傍観するしかない己の無力を恥じた。
大体、出産は女の問題というが、自分も充分当事者で、部外者扱いされるのは筋違いのようにも思うのだが、この修羅場で、殺気だった女二人に向かってそれを言い出す勇気はなかった。

二人の闘いは続く。
「その危険の可能性はどれくらいだ?百バーセントなのか?」
「そうは申しません。が、かなり高い確率だと思います。」
「絶対ではないのだろう?ならば、わたしは大丈夫だという方に賭ける。」
「オスカルさま、出産は賭け事ではございません。」
「そんなことは承知している。だが、わたしの20年に及ぶ軍隊での最後の挨拶だ。何があってもこれだけは自分自身でやり遂げたい。これはわたしの仕事なのだ。」

わたしの仕事…。
この言葉にクリスはハッとして黙った。
もし、もし、自分が何らかの事情で医師という職業を辞めねばならなくなったとき、自分は何を思い、どうするだろう。
きっと手がけてきた患者に思いを馳せ、しかるべき後任を探し、しっかりと引き継ぎをして、決して事後に支障のないよう粉骨砕身努めるだろう。
であるならば…。
今、目の前で自分をにらみつけているこの方も、きっとそうお考えなのに違いない。

妊娠が辞任につながるというのは、軍隊ならではともいえる。
実家の近くの農婦たちは、出産の一時期だけは畑へ出るのを控えるが、やがて子供を背負い、あるいは籠に入れて道ばたに寝かせつつ、耕作にはげむ。
パン屋のおかみさんだってそうだ。
子供の世話をしながら店番をしている。
職場が家庭ど同一であるなら、仕事を完全に辞めてしまう必要はない。
だが、軍隊では、絶対にそうはいかない。
完全な男社会で、出産や育児など言葉の端にも上らない。
そしてやめてしまった以上、復帰はできない。
平民と結婚したオスカルの場合、軍隊どころか、現在属している貴族社会にさえ復帰できるかどうか怪しい。
背負っているものが重すぎるのだ。
女というだけで背負わなければならないものが…。

クリスは、しばらくの沈黙ののち口を開いた。
「承知いたしました。出来る限りご希望に添うよう考えましょう。全軍の前でご自身で退任の挨拶、これが最低条件でございますね?」
「ああ。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけだ。」
「わかりました。では、アンドレをお借りいたします。色々と準備もありますし…。」
オスカルはアンドレを見た。
アンドレはにっこりと微笑んだ。
何でもしてやるぞ、と顔が言っていた。
「よろしく頼む。」
オスカルはクリスとアンドレに思いを託した。
強力な敵ほど、味方につければ心強い。
クリスは最強の味方になった。      

                         

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惜    別

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