「整列!」
副官補の号令に一糸乱れぬ隊形が練兵場に出現した。
「捧げ、銃!」
一斉にカシャっという音がして、これまた見事な動きで銃が捧げられた。
誇らしげな隊員たちの顔、満足きわまりない隊長の蒼い瞳。
ダグー大佐は目頭が熱くなった。
そして、いかがです!と胸を張って後方を振り返りブイエ将軍を見た。
大きな鼻をフンとならしている将軍はいかにもくやしそうに苦虫を噛みつぶした顔をして
一連の動作をにらみつけていた。

結局、うまくやったらやったで気に入らないのだな。
嘆息とともに大佐は傍らの年若い副官補に合図した。
「なおれ!」
またもや一瞬にして捧げられた銃は全兵士の側面におろされた。
隊長が赴任して間もないときの閲兵式では、兵士たちの手荒い反抗に遭い、軍人としては
あるまじき落馬という醜態を、衆人の眼前でさらしてしまった将軍である。
兵士たちと新任隊長とのいさかいの側杖をくらった形で大恥をかかされたのだ。
よもやそのときのくやしさを忘れているわけはなく、このたび、見事な閲兵ができたとし
ても、その傷ついた感情はなんら修復されるものではない。

だが、そのような見かけによらぬ繊細な将軍の心情には一片の配慮も必要ない、とばかり
に、隊長は部下に命じて、次々に訓練の成果を披露させていった。
銃の試射も、隊形移動も、騎乗による行進も、何一つ文句のつけようがなく、将軍の補佐
官たちが感嘆のまなざしを隊長にそそいでいた。
あれほど荒れていた衛兵隊をここまでに育て上げるとは…、という思いは、ダグー大佐が
一番強く感じている。
指揮官としての天賦の才をお持ちなのだ。
もちろん指導者としても…。
長い軍属生活の中で、今、優れた上司を得られたことが、ダグー大佐の何よりの喜びであ
った。



ニコリともせず、将軍は完璧な閲兵式を見終えて引き上げていった。
これほどまでのものを見て、ひとことくらいねぎらいの言葉があってもよさそうなものだ
が、それは自尊心が許さないのだろう。
司令官室に戻った隊長に、大佐はついこぼした。
「ブイエ将軍も、なんといいますか…、その、大人げない…ですな…」
すると隊長は、
「あの方から叱責がない、ということは稀有のことなのだ」
と笑った。
「ああ、なるほど…。確かにそうですな。いついかなるときも、どんなささいなことでも見
逃さずお叱りを頂戴いたしておりました」
「そうだろう。だが、今日は一言もなかった。いいか?ただの一言もだ」
「つまり、それだけ素晴らしい閲兵式だったということでございますな」
「ふむ。三部会開会を控えて衛兵隊の状態を視察しておく必要がある、などともっと
もらしい理由をつけおって…。要するに嫌がらせに来たのだ」
「見事に一泡吹かせられましたぞ。今日の閲兵はわたくしが今まで見た中でも文句なしに
最高のものでした」
「大佐にそう言ってもらえると、非常に嬉しい。将軍の感想などどうでもよいのだ。経験
豊かなダグー大佐がそのように見てくれたのなら、訓練の甲斐もあったというものだ」
隊長が心底嬉しそうな顔を見せた。
完璧な指揮官の顔と、この子どものような得意げな笑顔。
大佐は心からの敬意と、親愛の念を禁じ得なかった。
この笑顔のためなら、将軍と隊長との不仲の側杖くらい、衛兵隊員全員で食ってやろう、と
大佐は本気で思った。

「失礼します」
という声とともに、アンドレ・グランディエがトレイにお茶を乗せて入ってきた。
心憎い配慮で、ちゃんと二人分用意されている。
「大佐、本当にご苦労だった。一息つかれよ」
と促され、大佐は隊長の向かいの椅子に腰を下ろした。
アンドレがさっと給仕をはじめる。
二つのカップに紅茶がカップに注がれた。
「どうぞ」
といかにもよい香りのお茶を差し出すと、アンドレはすっと引き下がり、扉のところに立った。

大佐は一口含み、ゆっくりと喉を通した。
そして目の前の隊長を見た。
同じようにゆっくりと味わっている。
カップを持つ指の細さに驚き、女性だったのだ、とあらためて思った。
見事な指揮官ぶりに、普段は完全に忘れているが、ふとした時に、そうだった、と思うこ
とがある。
今もそうだった。

空席だった隊長職に、こともあろうに現職の近衛連隊長が赴任してくると聞いたときの驚
き…。
大佐は今もはっきりと覚えている。
しかもこの連隊長は女性であり、およそベルサイユの貴族なら知らぬものはない有名人だっだ。
決定を聞いた友人知人の興味津々のまなざしに閉口しつつ、自身も一体全体なぜなのか、
あるいはこれからどうなるのか、という疑問が渦のように湧いてきて、年甲斐もなく興奮
したものだった。

以来…。
紆余曲折、艱難辛苦、七転び八起き…。
ありとあらゆる経験をさせてもらった。
この歳でこんなに新鮮な体験を積めるとは思いもしなかった。
無理だ、と思ったことも一度や二度ではない。
側杖は何度も食った。
だが、隊長自身が投げ出さない以上、副官たる自分が投げるわけにはいかなかった。
ただ誠実に寡黙に淡々と副官としての責務を果たし続けた。

中流帯剣貴族の自分が、それなりに勤めた結果が現在の大佐という地位である。
少尉、中尉、大尉、少佐、中佐と順番にこつこつとのぼってきた。
家格からしてこれが上限だとの予測はついた。
祖先を見てもこれ以上のぼったものはいない。
だが、順調に進む階級に比べて、役職の方はどうにも恵まれなかった。
地方勤務が長く、なかなかベルサイユへ戻ることがかなわなかったのだ。
階位の昇級は案外この不遇な扱いへの配慮だったのかもしれない。

ようやくベルサイユに戻って、任命されたのは衛兵隊ベルサイユ駐屯部隊の副官職で、
やはり最高責任者の隊長職ではなかった。
どうも人の上に立つ人材とは思われていないらしい。
前任の隊長がアランに顎を砕かれ退職したとき、もしかしたら、という期待をしたのだが、
即座にジャルジェ准将がやって来た。
あいているところならどこでもいい、というジャルジェ准将の嘆願に苦慮した王妃が、地
方ではなくベルサイユにあって、とにかく隊長と名の付くこの役に配属を決定したらしい
、とあとから噂で聞いた。

ひがんでも誰も咎めない状況ではあった。
だが、そのように自分をおとしめたくはなかった。
どのような僻地の任務でも嫌な顔をせず、逆にどのように階位があがろうとも慢心せず、
与えられた職務にひたすら励むというのがダグー大佐の信条だった。
たとえ、それが自分などのはるか及ばぬ大貴族のしかも女性の部下であったとしても…。
そしてその誠実な勤務態度は、今充分に報われている。
見栄でも衒いでもなくそう断言できた。
「ごちそうさまでした。わたくしは副官室に戻ります」
大佐はアンドレに大変美味だったと言ってゆっくりと立ち上がった。



「ダグー大佐は、不思議な男だな」
大佐が退室したあと、オスカルはティーセットを片付けるアンドレにぽつりと言った。
アンドレは黙って手を動かしている。
オスカルは一人語りがしたいのだ。
合いの手はいらない。
「わたしのようなものの下で、はじめから何の偏見ももたずただ静かに任務に励んでくれ
た」
ジェローデル少佐は有能な副官だったが、切れ味が鋭く、時に才気走るところもあった。
自分と組むとそれが相乗効果をもたらし、より優れた結果を生むこともある反面、時に暴
走につながったりもしたものだ。
近衛という安全が保証された場所だったため大して問題にもならずにすんだが、今もし衛
兵隊でジェローデルが副官だったなら、兵士との対立は一層激化していただろう。
ダグー大佐であったればこそ、ここまで落ち着いた部隊になったのだとオスカルは確信して
いた。

「大佐はおまえの気性を本当によくわかっている。そして自分が何をすべきで、何をすべ
きでないか、ということも…」
アンドレはトレイを手に抱えて扉に向かいながら言った。
オスカルのような指揮官のもとでは、副官は何をするか、というよりは何をしないか、と
いうことのほうが重要なのだ。
それは自分にもそのままあてはまる。
扉に片手をかけながら彼は思った。
オスカルのもっとも近くでもっとも長く仕えてきた自分もまた、彼女のそばで何をすべき
でないか、ずっと考え続けてきたのだ。
彼女自身の力でなすべきことの邪魔をしないように…。

「アンドレ、おまえは何をすべきではないかを考えるな。何をすべきかをもっと考えろ」
突然、オスカルに言われ、アンドレは驚いて足を止め振り返った。
「…?」
「今朝、月のものがはじまった」
オスカルは手元の書類を引き寄せ、眼を落とした。
「一応伝えたからな。もういい。あっちへ行け」
決して顔をあげず、オスカルは邪険ともいえる口調で言いはなった。
「…!」
そうか、この仕事があったのだ。
オスカルのために自分がすべきことのなかで、本来もっともすべきではなくて、もっともやっ
かいで、しかしもっとも重要なこと。
オスカルの体調管理…。

「わかった」
アンドレは短く答えるとティーセットを持って部屋を出た。
クリスとの約束を思い出し、また言いにくいことをあえて告げてくれたオスカルのために、彼は
強烈な側杖を喜んで食うことにした。



                                          おわり




 
        



  







そば     づえ

側   杖

※けんかのそばにいて、振りまわす杖で打たれることから自分とは無関係
のことで思わぬ災難を受けること。とばっちり。まきぞえ。
                                    (大辞林)