1789年7月14日。
世界史上かくれもない不滅の7月14日は前日と同様に明けた。
快晴 気温やや高し。
この日、オスカルは賑やかな声で目が覚めた。
アンドレはすでに着替えを済ませている。
船室の寝台は長椅子のような細いものが壁にそって作り付けてあるだけで、いくら何でも二人で寝るには狭すぎたから、アンドレは天井からつるしたハンモックで休んでいたはずだが、すでにそれも片付けられていた。
そういうところ、そつのない奴だ。
オスカルの目覚めに気づいた彼はすぐに洗面用の水をもらってきてくれた。
まったくそつがない。
手早く洗顔し、アンドレから渡されたタオルで顔を拭いていると水夫が朝食をもって来た。
どことなくフランソワに似ていて、水夫にしてはきゃしゃな体つきだ。
その男をつかまえてオスカルが世間話でもするようにさりげなく問いかけた。
「もう少し船をパリの中心部に近づけられないか?」
アンドレの顔色が変わった。
「近づけてどうする?」
「どうもしない。ただ近づきたいだけだ。」
「無茶だ。」
アンドレの言葉と同時に水夫も返答した。
「無理です。それはできません。」
見事な断言に、オスカルは虚を突かれたように水夫を見た。
クロティルドの指示は水夫全員に行き渡っているのだろうか。
「なぜだ?」
気を取り直して再度質問を試みた。
「中心部は橋が多くて、この船は通れません。」
いたって単純明快な答えだった。
オスカルとアンドレは自分たちが乗っている船を頭に思い浮かべた。
川船には似つかわしくない大型船だ。
もちろん、海外交易に使用するのはもっと大きいのだろうが、さすが船乗り貴族の所有物だけあって、川船にしてはマストもそれなりに高く張っている。
「パリ市内の低い橋の下をくぐれないんですよ。この船じゃあね。」
水夫はくったくなく笑った。
なぜクロティルドがパリに買い付けに来たのにもかかわらず、わざわざベルサイユ近郊でこの船を待機させていたのか。
自分がジャルジェ家を訪問するから、というだけではなかったのだ。
この船は物理的にあそこまでしかこれなかったということらしい。
ノルマンディーの河口からパリまでには、さほど大きな都市もなく、したがって橋などないに等しい。
よしんばあったとしても、通過時のみ、前もって帆をたたむことが可能である。
だが、ここパリは、中心部をセーヌが流れるため、他の町とは比較にならないほど橋が多いし、また利便性をはかるため、橋高が低いときている。
しかも、最も中心部にはシテ島のような中州もあって、川幅は一層狭くなっている。
この時代、パリ市内のセーヌ川は未整備で、現代の美しい風景からはおよそ想像もつかないほどの泥川だ。
そこを行き交うのは荷物をつんだ小さな手漕ぎの船ばかりだった。
下船できないなら、いっそ、船ごとパリに乗り込むつもりだったオスカルの計画は、あっけなく散った。
さすがクロティルドだ。
押さえの一手が、効果抜群である。
船からは下りられない。
そして船は物理的に中心部には行けない。
オスカルのもくろみはこれで潰えたかに見えた。
「姉上はお部屋におられるのか?」
どうやら直訴に及ぶ気らしい。
だが、あのクロティルドがオスカルの懇願になびくとは思えない。
アンドレは余裕の表情でオスカルと水夫の会話を見守った。
「いえ、それが…」
水夫が言いよどんだ。
「どうかしたのか?」
「さっき奥さまにお客が来て、一旦下船されました」
「お客?」
「きれいに着飾ったご婦人が三人。えらい剣幕で川岸から奥さまの名前を呼んできたんですよ。すごいドレスで、とってもじゃねーけど船なんかにのれそうになくて、奥さまに降りてくるようにって。なんか態度のでかいおばさんだったけど、奥さまはそれで船を下りて行かれたんです」
オスカルとアンドレは顔を見合わせた。
朝から賑やかだったのはそれか。
きれいに着飾ったご婦人が三人とは、マリー・アンヌとカトリーヌとジョゼフィーヌに違いない。
態度がでかいおばさんというのはおそらくマリー・アンヌだ。
自分たちをセーヌまで送ってくれたジャンたちが、船がノルマンディー方向ではなく、上流に向かったことを、屋敷に戻るなり報告したのだろう。
それを聞いて黙っている三人ではない。
うかつだった。
しかし、なんという無鉄砲さ。
いかに着岸に安全な場所を選んでいるとはいえ、ここは一応パリ市内である。
貴婦人3人がやってくるような場所ではない。
それでいうならば、当然妊婦がやってくる場所でもないのだが、そちらは完全に棚上げして、よくも父上がご許可なさったものだ、とオスカルはそちらのほうに感心した。
「それでどこへ行かれたのだ?」
「このすぐ近くに、バルトリ家のお抱え商人の屋敷があるので、とりあえずそっちに…。なんせ目立つ人たちなもんだから…」
「賢明な判断だな。あの顔ぶれでは、すぐに貴族だとばれて、どんな騒ぎに巻き込まれるか…」
原因を作ったのが自分であることもまた完全に無視してオスカルは顔をしかめた。
ノルマンディーに向かったはずの船がどこへ向かったか、すぐに捜索させ、そしてこの場所をつきとめた三人は、夜明けを待って馬車をとばしてきたに違いない。
オスカルを同席させなかったのは、クロティルドが、下船してはならない、という自分の出した指示に、自ら背くことができなかったためだろう。
商人の屋敷とはいえ、パリ市内に上陸することには変わりない。
オスカルは、おかげで船に置いて行かれて、騒動に巻き込まれずにすんだ。
あのうるさい姉たちの相手を一手に引き受けてくれたクロティルドに感謝でいっぱいだ。
「下船禁止令もなかなか役に立つな。」
オスカルは嬉しそうに笑った。
だが、その笑顔を向けられたアンドレにとっては、知らない間に激しく変転する事態に息をのむばかりだ。
冷静に考えれば予測可能な事態だった。
だが、パリ市内を戦闘の情報を集めるためにかけずり回っていた昨日、そんなことまで考える余裕は到底なかった。
出発に際し、オスカルをくれぐれも頼む、と言われていたにもかかわらず、こうしてパリまで来てしまっている現状を、どのように申し開きすべきか、言葉もない。
さらに三人の相手をクロティルドひとりに負わせた心苦しさも、一層彼の懊悩を深めさせた。
だが、そんなアンドレの苦悩など全く関知しないオスカルの次の言葉で、ついにアンドレは完全に息がとまり、全身が凍り付いた。
「姉上がおられぬならばちょうどいい。アラン・ルヴェを呼んでくれ。小船を一層拝借したいのだ。小船でも船は船。それで行くなら、下船したことにはならんだろう」
※参考資料 「図説フランス革命」 芝生瑞和編 河出書房新社
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