「オスカル、オスカル」
アンドレが扉を叩きながら小さな声で呼んだ。
「入れ」
短い返事がすると同時に彼はオスカルの居間に滑り込んだ。
別に周囲の目を気にする必要はないのだが、謹慎中のオスカルの部屋におおっぴらに出入りするのはどうも気が引けた。
「どうだった?」
オスカルは待ちきれない様子で尋ねてきた。
「順調だ。30日までには、とベルナールが言っていた」
「そうか…。そんなにかかるのか?今日は26日だ。あと4日か…」
「よくやってくれている。不眠不休の働きぶりだ。オスカル、あせるな」
アンドレは、いらつくオスカルをなだめた。
30日までには、とベルナールから聞いたアンドレは、その日が、別件の期限でもあることを思い、不思議な回り合わせに感じ入ったのだが、オスカルにはそっち方面の感慨はこれっぽっちもないようだった。
さすが、というべきか、そんな、というべきか。
アンドレは判断に迷う。
だが、オスカルの頭の中を、例の件ではなく、部下のことだけが占めている現実は、否応なく眼前に提示されていて、本心はどうであれ、アンドレとしては受け容れざるを得なかった。
ベルナールに部下の救出依頼をしてから、オスカルは自室にこもった。
今日で三日目になる。
その間、食事にも下りなかったし、寝室にも行かなかった。
用はすべてアンドレが果たした。
最初のころは侍女たちも案じていたが、何があったのか、屋敷中がざわざわとした喧噪につつまれてきて、それきりオスカルの引きこもりは放置された。
詮索されるなら困るが、放っておかれるなら幸いである。
オスカルは屋敷内の詳しい事情にとんと関心をよせず、ただ部下たちの釈放だけを念じて過ごしていた。
オスカルとしては、牢獄にいる部下とできるだけ同じ境遇に自分をおきたかった。
まともに食べず寝床も確保されずに閉じこめられた部下を思えば、自分だけがのうのうと豪華な食事を取り、ふかふかの羽布団で眠るなど到底できることではなかった。
だから、昨日まではアンドレが厨房から持ってきてくれるパンとスープ、それにわずかな飲み物だけを取り、夜も着替えず、居間の長椅子に身体を横たえるだけにしていた。
だが、食事は最小限とっているからまだいいが、軍服のまま眠らないのは絶対に許さない、とアンドレが恐ろしいまでに怒って、昨晩は無理矢理着替えさせられ寝台に放り込まれた。
アンドレの言うことももっともだから、言う通りにするにはしたが、やはり牢獄の部下を思うと、胸が張り裂けそうだった。
「ベルナールに金を渡してきた。大がかりな仕事だからな」
アンドレは上着を脱ぎながら言った。
「軍資金か。わたしの使える金は全部使ってくれ。一刻も早く救出したいのだ」
「アランたちに伝言するために看守にわいろを渡したいらしい。きっと救出するからあきらめるな、と伝えたいそうだ」
「なるほど。そんなことができるのか」
「まあ、なにごとも金次第、というときもある。正攻法ではないがな」
「やむを得ん。牢獄で少しでも気持ちを前向きに持たせてやりたい。ベルナールの配慮は見事だな。信頼して間違いない」
「俺もそう思う。ベルナールは本当によくやってくれている。ロザリーがけしかけてるんだろうけどな…」
アンドレはクスクスと思い出し笑いをした。
状況の進展を説明し、今後の予定を的確に立てていくベルナールは、まことに頼もしいと、アンドレは心底感心していた。
だが、そのベルナールが唯一情けない顔をするのが、ロザリーが意見するときだった。
ロザリーは、アンドレから、オスカルが兵士釈放まで、完全に蟄居謹慎している、と聞き、急げや急げとばかりにベルナールを叱咤激励しているのだ。
その猛妻ぶりは、これがジャルジェ家にいた可憐な少女だろうか、と思うほどすまさじく、さらに驚くべきは、そういう妻の態度をごく当たり前と受け止めているベルナールの態度だった。
「最初からこうなんだ。もう慣れっこになってしまってな…」
ベルナールは自嘲気味に笑っていた。
「恋敵が男なら決闘申し込んで白黒つけられるんだが…」
アンドレは深く深く同情した。
だがこのアンドレの話に、オスカルはいかにも小気味よく笑った。
「まあ、それは仕方がない。わたしの大切な妹を妻にしたのだ。少しばかり尻に敷かれたところで文句はあるまい。決闘をというなら、いつでも受けて立つが…」
つくづく気の毒なベルナールである。
「ところで…」
アンドレは話題を変えた。
「だんなさまが昨日宮廷へ行かれたそうだ」
「父上が?」
「ああ。どうやら正式な謁見だったようで、マリー・アンヌさまが同席なさったということだ」
「姉上が?」
「詳しいことはわからない。ただ、オルガが奇妙なことを言っていた。まもなく引っ越しだから忙しくなる、と」
「引っ越し?誰が?」
「だんなさまと、奥さまと、おまえ」
「なんだと?」
「俺もパリに行きっぱなしだし、帰ってきたらここにこもっているから、情報が遅くて…。おばあちゃんともゆっくり話す暇がないんで、さっき聞いたばかりなんだが…」
謁見にマリー・アンヌが付き添ったことと、三人の姉上たちが今朝からやってきて何やらバタバタと騒がしいこと、その理由がどうやら引っ越しのためらしいこと、などをアンドレはかいつまんで話した。
「その引っ越しとやらはいつなのだ?というかなぜなのだ?」
オスカルは久しぶりに部下たち以外のことに思考を向けた。
いや、向けざるを得ない話題だった。
自分が引っ越すというのだから。
「わからん。近々だと、オルガは言っていたが」
「どこへ行くのだ?」
「なんでもアラスらしい」
「アラス?何しに行くのだ?」
「謹慎」
「ここでもできるじゃないか。というか、現に今しているぞ」
「そうなんだ。だから俺も話しが見えなくて…」
「いや、待て。父上も引っ越しされると言うんだな?」
「ああ。奥さまもな」
「つまり父上も謹慎ということか」
「あっ…!」
アンドレは大事なことを見落としていたことに気づいた。
「わたしのせいか…」
オスカルはそう言って黙り込んだ。
処分はなし、だったはずだ。
宮廷に軍務証書を取りに行けと父上はおっしゃっていた。
それなのに、なぜ…。
わたしをかばってくださったのか。
わたしのかわりに父上が処分をお受けになったのか。
だがオスカルはすでにベルナールと約束している
アランたちが釈放されれば軍隊をやめると…。
決して望んでするわけではないが、部下12名の命と引き替えならば、やむを得ない仕儀だった。
そんな自分の身代わりになどなっていただく必要はない。
王家のために誠心誠意お仕えされてきた父上が、自分のために辞職など…。
オスカルは悲愴な顔でアンドレを見た。
アンドレも同じような顔をしていた。
うかつだった、と悔いても遅い。
だんなさまの御気性を思えば、あのまま奥さまのおっしゃるとおりになさるわけがない。
きっとすべての責任をご自身が負われるに違いないのだ。
そしてだんなさまが終われる責任には、自分たちの結婚も含まれている。
オスカルの命令違反と無許可結婚の罪をだんなさまは一身に引き受けるお覚悟だ。
だからこそ、奥さまとオスカルを連れてアラスに居を移されるというのだろう。
今さらながら、自己の信念を貫いた結果がもたらしたものに驚愕する。
「あのご気性だ。お止めすることはできないな」
めずらしくアンドレが先に言葉を発した。
「だんなさまが、こうとお決めになったのなら、仕方がない。どうせおまえも除隊するのだろう。なまじ軍籍を離れてベルサイユに留まるよりはいいかもしれん」
アンドレは自分に言い聞かせるように言った。
もし妊娠が事実なら、なお一層、ここを離れて地方に行くのは適切な判断だと思えた。
だが、オスカルは聞いているのかいないのか、黙ったままである。
「オスカル、」
アンドレは優しく名前を呼んだ。
オスカルは、ゆっくりと顔をあげた。
月のものはまだこない。
アランたちの釈放もすぐにはできない。
そして自分は両親とアラスに行くという。
衛兵隊をやめて…。
部下たちと別れて…。
「何も考えられない。今は何も…。ただ祈るしかできない」
オスカルはアンドレの胸に顔をうずめた。
部下が釈放されますように。
両親に平穏が訪れますように。
そして自分は…。
本当にこの身体に命が宿っているのだろうか…。
アンドレはオスカルの顎にそっと手をやると上を向かせ、静かに唇を重ねた。
それから、再びオスカルを腕の中に抱き取った。
さまざまな不安が吸い取られていくような優しい抱擁だった。
「おまえはなぜそのようにいつも落ち着いていられる?不思議なくらいおとなしくてひかえめで、はじけなくて…」
オスカルは瞳を閉じたまま続けた。
「おまえのただひとつの眼は千の眼のように何もかもを見ている。ではわたしのわがままを聞いてくれ。わたしが臆病者にならぬようしっかりとそばについていてくれ。おまえは、限りなく暖かい…」
オスカルの心の中の封印が少しずつ解けていく。
そして解かれたものは、そこから出て、どこかに向かい始める。
どこへ向かうのかはまだわからない。
だが、たぶん大丈夫だ。
自分はひとりではない。
オスカルは広い胸に顔をあずけながら、これから起こることへの覚悟を決めた。
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