ベルサイユの夏がこんなに寂しいのは初めてだ。
王もいない。
王妃もいない。
もちろん王太子もいない。
そして王家に連なる有力貴族もいない。
国王一家はパリへ、貴族は国外へ亡命した。
一年前、誰がこんなベルサイユを想像しただろう。
あのときは、うちのだんなさまたちがアラスに行くという話だったのだ。
ところがそのだんなさまは奥さまとともに、頑としてベルサイユに留まっている。
つくづく世の中はわからない、とジャルジェ家の厩番と庭番が、並んで草抜きをしながら、こぼしあっている。

選りすぐりの面々だとマリー・アンヌに言われて残った仲間のうち、マロンはすでにノルマンディーへ去り、ひ孫の面倒に余念がないらしい。
ひとりで3人分くらいの存在感があったから、彼女の不在はジャルジェ家の使用人連中にとって、結構影響が大きいのだ。
人生の最晩年になって訪れた彼女の幸福を祝福しつつ、屋敷内には、宮廷同様、あるいはそれ以上の寂寥感が漂っていた。
そこに、門番が走ってきた。
そして意外な人物の来訪を告げた。
草むしりをやめて、庭番が執事とオルガを呼びに走り、その間に厩番がとりあえず客人を邸内に招き入れた。
随分と久しぶりではあるが、勝手に招じ入れても誰もが許すに違いない相手である。

「ロザリー!」
オルガが大声で駆け寄ってきた。
恥ずかしそうにほほえむと静かな屋敷に花が咲いたようだ。
「この子がフランソワかい?」
奪うようにロザリーの腕から赤子を抱き取って目を細めた。
「オルガさん。ご無沙汰してます。」
とりあえず作法通りの挨拶をしようとするロザリーには目もくれず、オルガはフランソワにほおずりを繰り返した。
続いて最近は膝を痛めて歩くのがつらそうなラケルが玄関ホールにやってきた。
「これはこれはめずらしい。元気だったかい?」
温厚さも上品さも適度に兼ね備えた老執事に、ロザリーは深々と頭を下げ、長の無沙汰を詫びた。

3人が赤子をはさんで旧交を温めていると、門番が大きな包みを抱えて外から入ってきた。
「これは?」
ラケルが尋ねた。
「オスカルさまから、だんなさまと奥さまにお渡しするようことづかって参りました。」
「おやおや…!」
オルガはこれは一大事とばかり、すぐに包みを客間に運び込ませた。
そして侍女たちを呼びつけ、主人夫婦を迎える支度をさせると、自ら二階にあがり将軍と夫人に事の次第を伝えてまわった。
ロザリーは客間に通され、ラケルとともに待機している。
フランソワは騒いではいけないから、と侍女のブリジットとレイモンドが別室に連れて行った。
庭番と門番と厩番はそれぞれの仕事に戻った。
そうして体制が整ったところに夫人が来て、つづいて将軍が来た。

「ロザリー!」
夫人が懐かしそうに声を上げた。
ロザリーがクリスによってノルマンディーに派遣され、オスカルの子供たちの乳母をつとめたことはすでに周知のことで、かつて世話になった屋敷を密かに出て行ったことを今更とがめるものは誰もいない。
ただ、将軍だけは、以前ブイエ将軍からの情報でロザリーの夫が市民運動の指導者的立場にいる新聞記者だということも、衛兵隊員のアベイ牢獄からの釈放の立役者であったことも知っていた。
だが、もう過去のことだ。
オスカルはすでに衛兵隊とは無縁であるし、何よりもかつての衛兵隊そのものがもはや存在していない。
あるのは市民主導の国民衛兵と呼ばれる、将軍からみればきわめていかがわしい輩にすぎない。

ロザリーは先ほど執事に対して行った以上に丁寧に挨拶した。
久方ぶりの対面は懐かしさ同時に緊張もしていて、ついつい固い態度になったが、待ちきれないという風な夫人のはしゃいだ声が、場をなごませ、せかされるようにロザリーは包みをほどいて贈り物を取り出した。

「まあ!!」

夫人は感極まって言葉を失った。
双子の赤子の肖像画だった。
輝く金髪と真っ青な瞳の天使が、得も言われぬほほえみをたたえて広いゆりかごに座っていた。
1人の手が、もう1人の髪に触れている。
その手が透き通るようにに白い。

「ミカエルさまとノエルさまです。」
ロザリーがゆっくりと言った。
「オスカルの小さい頃にそっくり…。」
「ばあやさんもそうおっしゃってました。」
「どっちが男のほうだ?」
将軍が突然ぼそりと言った。
「あ…、あの向かって左のお方です。」
髪をさわられているほうだ。
「これが、ミカエルか。男…なのか。男なんだ…な。」
将軍の胸中は誰も計り知れない。
「ご気性はノエルさまがそっくりだそうです。」
ロザリーの説明に夫人が目を見開いた。
「あら、まあ!」
そしてクスクスと笑う。
「これであの子もわたくしの苦労を少しはわかってくれそうね。」

夫人の指示で、屋敷中のものが客間に集められた。
おっかなびっくり入室してきたものたちが、壁に掲げられた肖像画を見てそろって立ち尽くす。
女たちの中には感極まって嗚咽をもらすものもいた。

「皆が守ってくれた命です。こうして元気で育っています。本当にありがとう。」

夫人のことばに、男連中まで、目を潤ませた。
皆の脳裏に、一年前、マリー・アンヌに呼び集められた光景がよみがえった。
「なんとしても守りたいのです。」
あのときのあの言葉が、こうして実現された。
寂しいベルサイユに、ジャルジェ邸に天使が降臨したのだ。

夫人はブリジッドが抱いている赤子に気づくと、ロザリーに向かって抱かせてちょうだい、と頼んだ。
ロザリーは大きな瞳にいっぱい涙をためたまま、フランソワをブリジッドから夫人へと運んだ。
夫人は、ああ…、と深い感嘆のため息をもらし、さも幸せそうにフランソワを抱いた。
ミカエルとノエルを思い、そして母となった末娘を思う夫人の心を、室内の全てのものが察した。
「なあ…。なんか嬉しいなあ…。」
厩番がぽつりと言った。
庭番がうなずいた。
「案外、寂しくても、いい夏かもしれんなあ。」




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移ろいゆく季節