ロザリーは机の前に便せんを広げてしみじみと考えた。
ノルマンディーにいた半年が、まるで夢のようだ。
オスカルさまがいて、ミカエルさまとノエルさまがいて、アンドレとばあやさんがいて、そしてすっかり仲良くなったエメや、アゼルマ、コリンヌ…。
乳母としての仕事は果たしつつも、お茶の時間を楽しんだり、散歩に出たりして、柔らかな陽光にすっぽりと包まれているような日々だった。

しかるに…!
久しぶりに帰ったパリの自宅は、男の一人暮らしのなれの果てで、こんな不潔なところにフランソワを住まわせるなんて、とんでもないわ!、というのが彼女の帰宅第一声だった。
寂しいと泣きついてきた割には、ベルナールは多忙をきわめており、ほとんど自宅によりつかない。
幸い、年格好が似ていたお陰で、フランソワはベルナールをアンドレと思ったらしく、すんなりなついてくれて、そのときだけはベルナールも感動して思いっきり抱きしめていたのだが、それ以後、フランソワの目が開いている時間に帰宅して父子の時間をとることはめったにない。
まったく、いったい何のために帰ってきたのかしら…。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
思ったらすぐ行動に移すところが、ロザリーのロザリーたるゆえんである。
「マルティーヌ・ガブリエル」という名前だけを手がかりにジャルジェ邸をベルサイユ宮殿と思い込んで、ナイフ一本握って乗り込んでいく行動力は、妻となっても、母となっても失われていなかった。

ベルナールが家にいようといまいと、毎朝彼女は手早く家事をすませると、フランソワを連れてラソンヌ邸に出勤することにした。
ノルマンディーに行く前はずっとそうしていたのだから、職場復帰したと思えばいい。
ラソンヌ邸では、ソワソン夫人とともに、内向きの仕事の一切を担当するのだ。
掃除も洗濯も料理も…。
すべてお手の物だ。
考えてみれば、ロザリーほど守備範囲の広い女はいない。
極貧で育ったために身についた生活力全般に加えて、ジャルジェ邸で仕込まれた貴族としての教養と作法。
剣もそこそこ仕えるほどにオスカルから特訓されたし、銃撃の腕前は夫で証明済みだ。
これだけの能力があれば、どこででも生きていけるだろう。

ラソンヌ邸では、医師とクリスは相変わらず診察に追われている。
衛生状態が悪いため、身体をこわすものが後を絶たないのだ。
しかも貧しいものたちには格安で診察するとなれば、時には外まで行列ができるほどだ。
そしてこの貧しい人たちの診察料をカバーするために、クリスは、ベルサイユまで、貴族の往診に出向く。
ジョゼフィーヌの宣伝のおかげで、貴族の夫人たちは、男性医師よりも圧倒的に同性のクリスを指名してくるようになっていた。
こちらからは、クリスは遠慮なく診察費を受け取っている。
そしてディアンヌは助産の腕が認められるようになって、優しい性質とクリス仕込みのきびきびした動きが評判を呼び、頻繁にお産の立ち会いに出かけていく。
負傷して軍隊を辞めたジャンが外回りのことは担当しているが、バスティーユ陥落以後の治安の悪さに恐れをなして、奉公に来ていた女が郷里に帰ってしまったので、ソワソン夫人だけでは屋敷がまわりきらなくなっていた。

「留守中、随分ベルナールがお世話になったから、その恩返しです。」
ロザリーの申し出を、ラソンヌ家は誰もが歓喜して受けいれた。
まったく、突然やってきては食べたり飲んだりしていった夫のベルナールに比べれば、妻のロザリーが来てくれる方がどれほど助かるかしれない。
やっかいものはベルナールだけではなかった。
相変わらず、アランも自邸よりは、母と妹のいるこちらにやってくるほうが多いのだ。
非番になると、勝手に転がり込んで泊まり込み、また適当に出て行く。
こういう、来るか来ないかわからない人間の食事まで手配するのは本当に骨の折れることだった。

そしてもう一人、突然やってくる人間がいた。
フランソワ・アルマンである。
靴屋に鞍替えして、パリでも有名な親方のもとに住み込みで働く彼は、たまの休みになると決まってラソンヌ家にやってくるのだ。
訪問理由は親友のジャンの顔を見に、というものだった。
うまくするとアランにも会えるし…、と言われると、誰もが、そうか、と思った。
だが、ロザリーだけはだまされなかった。
フランソワ・アルマンの真の訪問理由を見事に看破した。
ディアンヌだ。
フランソワ・アルマンは、できる限り早く一人前の靴屋になって、ディアンヌに求婚しよう、そのときはきっと断られないだろう、と一人バラ色の未来を思い描いて修行に励んでいるのだ。
彼のけなげな思いは、ラソンヌ邸の外部からやってきたロザリーにしか察知できないほど、上手に隠されていたから、邸内で気づいているものは誰もいない。
ロザリーの見るところ、当のディアンヌ自身、まるで気づいてないようだ。
仕事が楽しくでならないから、恋愛に心がいかないのだろう。
息子と同名のこの青年は、心優しく明るくて、ロザリーは彼の恋を暖かく見守っている。

悪い組み合わせではないと思うのですが…。

ロザリーはオスカルへの手紙に書いた。
何かあったらいつでも帰っておいで、と言ってくれたオスカルに、ロザリーは頻繁に文をしたためている。
身近で起きたこと、感じたことを書けば、それだけでパリの様子が浮き上がり、ときにフランスの全体像すら見える。
ロザリーの手紙はオスカルにとって、そういう役目を担っていた。

−見たまま、感じたままを書いてきてほしい。そしてできれば小耳にはさんだことも…。それを私なりに分析して、ルイ・ジョゼフに教えてやりたいのだ。

ノルマンディーを発つ前に、オスカルからそう依頼された。
無論、ロザリーは、ルイ・ジョゼフの素性を知らされてはいない。
バルトリ家の遠縁の子だと説明されたのみだ。
わけあって引き取ることになり、オスカルが家庭教師を頼まれたと聞いている。
だが、ロザリー自身が、かつてベルサイユで、ジャルジェ家の遠縁の娘と紹介された身である。
何か公にできない事情があるのだということはすぐにわかった。
だから黙って言われたとおり、こうして見たこと、感じたことを丁寧に書き送っている。

出産前後の身動きできない状態で閉塞感に覆われていたオスカルが、生徒をもつことで、ノルマンディーにいながら、少しずつ目を外に向け前向きになっている。
そのオスカルの役に立つなら、ロザリーは毎日でも手紙を書くことを厭わない。
パリの暑い夏の夜、ロザリーは静かに寝息をたてるフランソワの横で、微笑ましいフランソワ・アルマンの恋について書いた。
それから思い出したように、昨夜ふらりとラソンヌ邸に立ち寄ったアランが言っていた話を書き添えた。
ブイエ将軍が、ナンシーで起こった反乱を強権的に鎮圧したという事件のことである。
死亡者の数が1000人を超える大惨事になった、とアランがラソンヌ医師に深刻な顔でもらしたのを、たまたま聞いてしまったのだ。

フランソワ・アルマンの恋の行方と、ナンシーの反乱鎮圧後のフランスの行方。
オスカルがどちらに興味を示すか、それはわからない。
ただロザリーは、小耳にはさんだことをきちんとオスカルに伝えようとしただけだ。
ベルナールは今夜もまだ帰らない。
帰ってきたら、この反乱のことももう少し詳しくわかったのだけれど、と思いながらロザリーのまぶたは、静かに忍び寄った睡魔によって、ゆっくりと閉じられた。
混乱のパリでも、この空間だけは別世界のように、季節がゆっくりと移っていくらしい。
まもなくロザリーは完全に机にうつ伏せてしまい、書きかけの手紙が、ろうそくの明かりにぼんやりと照らし出されていた。





back next menu home bbs

−3−

移ろいゆく季節