食堂に忽然と姿を表した宴席の最上座は空席で、次席にダグー大佐が座っていた。
それがこの人のもっとも自然な姿であることは、すでに兵士全員の知るところであり、そして全員が当然であると同時に大変好もしく受け止めていた。
大佐は皆が席に着いたのを確認すると、一枚の紙片を手に立ち上がった。
「コホン…」とひとつ咳払いして、皆を見渡した。
大量の食糧を前に、どうか長い挨拶になりませんように、という隊員たちの密やかではあるが切実な祈りが聞こえてきそうな瞬間だった。
「今日は、わが衛兵隊の1班がめでたくここに戻ってきたことを祝して、ささやかな宴を開きたい、というジャルジェ准将の思し召しにより、特別に開くものである。本来なら真っ先に祝辞を述べられるべき隊長は、諸君も既に知っているとおり、司令官室からお出になることができない。そこでわたしにこの手紙をことづけられた。隊長直々のお言葉である」
最前の祈りは忘れられ、会場は水を打ったように静まりかえった。
「一班の諸君、おめでとう。困難な獄中生活に耐えた君たちに、せめて腹一杯食べさせてやりたいとの思いで、祝宴を催すことを計画した。しかるにわたし自身が直接立ち会えないことを非常に申し訳なく思う。どうか今宵は日頃の憂さを放念し、君たちの安否を心から心配していた仲間の諸君とともに、しっちゃかめっちゃかに騒いで欲しい。以上」
ワアーと歓声が上がった。
大佐は目の前のグラスを高々と掲げ、乾杯!と叫んだ。
怒号のように唱和する乾杯の声があっという間に消え去り、あとはガツガツとかっ食らう音だけが広い食堂に響き渡った。
まだ酒は手を付けられず、とりあえず食品類がいいかげんな咀嚼を経て胃袋に納まっていった。
「見事なもんだな」
アンドレはなかばあきれ、なかば感心したようにつぶやいた。
この光景をオスカルが見たら、どんなに嬉しげに目を細めるか、容易に想像できた。
さきほどの大声は、窓を開け放した仮眠室にもきっと届いただろう。
見せてやりたかった。
直接聞かせてやりたかった。
乾杯とさけんだ隊員のほぼ全員が、続けて、隊長に乾杯、と叫んだ光景とその感謝に満ちた声を…。
ようやく空腹に一息ついたらしく、今度はアルコールの蓋に次々と手が伸びていった。
安酒で正解だった。
こいつらに高級品は不要だ。
味わう、という気がまったくないのだから。
まるで湯水のように流し込まれる酒を見て、アンドレは自分の判断の正しさを確認した。
ダグー大佐は、安酒であることはわかっているだろうに、次々に酌に来る兵士達と気軽に声を交わし、返杯までしてやっていた。
彼自身は骨の髄まで貴族であり、それ以外のものにはなれないだろうことは、日頃の立ち居振る舞いから明らかだったが、それと兵士との間に溝を作ることとは全然別物であることが、今の姿から証明されていた。
もし、すべての貴族がこういう態度であったなら、今のフランスの状況は随分ちがったものになったことだろう。
誇りというものは心の中に持つもので、外部に現して人を見下すべきものでは決してない。
「隊長は、いつ発表するんだ?」
突然アランが声をかけてきた。
離れた席から、グラスとボトルを持ってわざわざやって来たらしい。
周囲に聞かれないよう小声にしているが、そういう配慮がもはや不要なほどあたりは盛り上がってきていた。
「できれば自分の口から伝えたいから、もう少し回復してからになるだろう」
アンドレは簡潔に答えた。
「そうか。だんだんきな臭くなってきているから、あんまり悠長なことを言っていると、時期をはずすぜ」
軍人としての直感だろうか。
自分たちの解放を簡単に決定した王室側の、いずれ衛兵隊も出動させる、という本音を敏感に感じ取っている発言だった。
「確かに、おまえの言うとおりだな。あまりのんびりとしているわけにはいかない。大体が司令官室で寝込んでいること自体が、あいつにとっては武人として耐え難いことだしな」
「そうだろうな」
アランはフフ…と笑ってうなずいた。
「おまえ、そばについていなくていいのか?」
アランは真顔で聞いた。
「宴会の様子をしっかり報告するよう命令が出てるんだ」
アンドレはニヤリと笑った。
「アンドレ、アラン、二人で何をコソコソやってるんだよ?」
一班の連中が押し寄せてきた。
良い調子にできあがってきていて、ジャンなどはゆでだこのように真っ赤な顔になっている。
「どうだ?楽しんでるか?」
アンドレが声をかけた。
「ばっちりさ!」
ミシェルが片眼をつぶった。
「隊長はどうなの?」
ピエールが尋ねた。
「まあぼちぼちな」
アンドレはあいまいに返答する。
「俺たちのことが心配で、あんまり眠れなかったんじゃない?」
「そうそう、食欲も…」
「みんな牢獄の中で心配してたんだ」
酔っぱらってはいるが、真剣に面持ちの連中に、アンドレは胸が熱くなった。
厳しい環境の中で、こいつらはオスカルの心配をしていたのか、と思うと一刻も早くこのことをオスカルに知らせてやりたかった。
「でもすごいよな。俺たちのためにあんなに大勢の市民が集まってくれるなんて…。俺、本当にびっくりした」
フランソワが正直な感想を述べた。
「俺もそう思った。なんで見ず知らずの俺たちのために、こんなにしてくれたんだろうって」
ラサールが同意した。
「俺たちの命なんて、みんなにとってはどうでもいいものだろうに…さ」
ミシェルが続けた。
「平民議員を守ろうとしたからだよ」
アンドレが笑った。
「あの議員はみんなの代表だ。それを守ろうとしたおまえたちは、見ず知らずの奴なんかじゃないし、どうでもいい人間なんかじゃない。だから市民が動いたんだ」
アンドレの説明はわかりやすかった。
同時に、時代がそこまで変わってきているのだ、ということもアランには理解できた。
「せっかく助けられた命だ。大事にしろよ」
いかにも年長者らしくアンドレは諭した。
皆、素直にコクリとうなずいた。
それから代わる代わるアンドレのグラスに酒をつぎ、乾杯を繰り返した。
時代は確かに大きなうねりの中にある。
何かが変わろうとしている。
変えたいと強く願う人々がいる。
その願いが、自分たちの命を救ってくれた。
願うだけではなく、行動することを始めた市民の存在。
自分たちもやがては…。
まだ形にはなっていないが、何かが兵士の心の中に生まれ、育ち始めていた。
そして今宵は、市民ではなく隊長の願い通り、しっちゃかめっちゃかの宴会が果てることなく繰り広げられた。
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