隊長の機嫌がよい。
少し薄気味悪いくらいだ、と皆が感じている。
だが、勇気を出して原因を尋ねるものはいない。
殺人的忙しさの中で、心地よく指揮をとってもらえるなら、それで結構。
わざわざ藪をつついて蛇を出すヘマをする必要はない。
長いつきあいで、兵士たちも随分大人になったものだ、とアンドレは感心していた。

オスカルがなぜ機嫌が良いのか、実はアンドレも理由を知らない。
彼は夜勤明けで、仮眠室から遅番で出仕して、雑用を片付けてから司令官室に出向いた。
すると彼女は、ここのところ久しく見かけなかった爽やかな笑顔で彼に挨拶し、それからずっと上機嫌だった。
兵士たち以上に彼女とのつきあいの長い彼は、もちろんむやみに藪をつついたりはしない。
そっと様子をうかがい、観察し、上機嫌の笑顔の原因を心中密かに推測するのみだ。

そしてたいていの場合、1時間もすれば原因は判明する。
なんとなれば、彼女の方から話してくれるからだ。
だが、今日はそれが半日たってもなかった。
あえて彼女がしなかったわけではなく、二人きりになる時間が取れなかったため、物理的にできなかったのだ。

外国人部隊との困難をきわめる調整会議を終えて、オスカルがやれやれ、と司令官室で一息ついたときには、すでに食べそびれた昼食が、すっかり冷たくなっていた。
こういうとき、アンドレは決して自分だけ先に食事を済ませたことはなく、時間があっても食べずにいる。
したがって、アンドレの執務机の上にも冷めた昼食がぼつんと置かれていた。
それを目にして、オスカルはフフっと微笑んだ。

やがて、隊長の帰隊を誰かから教えられたアンドレが部屋に戻ってきた。
「先に食べておいてよかったのに」
とオスカルが言うと、彼は
「俺も今まで暇がなかったんだ」
と、いつものように答えた。
「そうか。では一緒に…」
オスカルは素直に騙された。

それぞれの席について、二人は遅い昼食を取り始めた。
いつもなら、こんな時間までくだらない会議に拘束されたことをぶつぶつこぼすはずだが、今日はそれもない。
ときどき何か思い出しにんまりとすらしている。
やがてオスカルは顔をあげて言った。
「アンドレ、毒は毒をもって制すという言葉を知っているか?」

アンドレは危うくスプーンを落とすところだった。
毒…ということばは彼の心の中では絶対的な禁句だったからだ。
彼にとって、毒は、イコール罪であり、罪は罰に直結していた。
どのような罰を受けても仕方のない罪を犯しかけた自分が、罰ではなく、女神の降臨を得たことは、恐懼きわまりないことであり、その幸福が大きければ大きいほど、より謙虚にふるまわなければ、一瞬にして女神は去り、すべては一夜の夢と化すのではないか、との不安を常時抱えて暮らしている。
まさかこんな昼日中、当の女神本人から、その罪を問うかのように、毒という言葉を聞こうとは…。

「アンドレ?なんだ、知らないのか?」
オスカルは、かたまっているアンドレを無視して、話を続けた。
「昨夜、わたしはこのことに気づいたのだ」
アンドレは、顔を上げることが出来ない。
毒に気づいたというのか?
俺の罪に…。
「そこで、さっそく手紙を書いた」
「え…?」
「わたしにしては上出来だろう?これが下書きだ。読んでみろ」
オスカルは引き出しから一枚の紙片を取り出し、アンドレの机に放り投げた。

アンドレは恐る恐るそれを手に取り、目を走らせた。

手紙は、ジョゼフィーヌ宛になっていた。

























   :敬愛の念止みがたきジョゼフイーヌ姉上さま

   姉上には時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
   先日来のわたくしの無礼の数々について深くお詫び申し上げると共に、あわせてぜひとも
   姉上にお聞き届け頂きたい儀につき、一筆啓上いたします。
  
   先般、ル・ルーが王太子殿下に拝謁し、もったいなくも直接のおことばを頂戴いたしました。
   ここまでは周知のことですが、実は、まだ誰にも話していないことがございます。
   話すにはあまりに恐れ多きことだったからですが、ジョゼフィーヌ姉上にだけはお話申し上げます。
   そして、そのうえでぜひともご助力をお願い申し上げたい。
   ただしことがことだけに必ず口外無用に願います。

   王太子殿下には、ゆくゆくル・ルーを妃に迎えたいとのご意向であらせられます。
   殿下の女性の好みについての是非はさておき、これは一門にとっての一大事、よもやお断りなど
   できることではございません。
   殿下は、今は病床においでですが、やがてはこのフランスの王たるべきお方。
   その殿下のご所望とあれば、どのようなことがあってもお受けするのが臣下の勤めでございます。
   しかし、ル・ルーはあのような娘でございますれば、このお話は、事と次第によっては、誉れである
   とともに、恥をさらす機会ともなりかねません。
   そこで、ぜひフランス貴婦人の鑑ともいうべき姉上に、ル・ルーを仕込んでいただきたいのです。
   マリー・アンヌ姉上はあまりに格式高く、ル・ルーには山が高すぎ、またカトリーヌ姉上は、お心優しき
   あまり、厳しいご指導はできないものと見受けます。
   ベルサイユの社交界の華と歌われたジョゼフィーヌ姉上こそが、ル・ルーの指南役に最適であると
   このオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは愚考いたしました。
   王家よりの正式な決定がないことゆえ、決して公にはできませんが、殿下直々にわたくしが承りました
   以上、万全の備えをなすべきであります。
   どうか、姉上には、ル・ルーのベルサイユ滞在中を好機としてをお手元に呼び寄せられたうえで、みっち
   りと貴婦人のたしなみをしこみ、未来のフランス王妃をお育て下さいますよう、オスカル、衷心より
   お願い申し上げます。
   善は急げと申します。
   この書状を受け取られましたならば、すぐにもお妃教育をおはじめくださいますように。

                                         オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将  
   




「なんだ、これは?」
アンドレは、目を点にしながらオスカルを見た。
「素晴らしいだろう。われながらよくもあの姉に対してここまでへりくだったものよ、と思うが、この際だ。背に腹は代えられん」
「オスカル、毒というのはこれか?」
「そうだ。ル・ルーにはジョゼ姉をもって制す…。見事な作戦だろう」
「うーむ…」
「言葉も出ないか?」
オスカルが楽しそうに言うのを聞きながら、アンドレは肩の力がどっと抜けていくのを感じていた。
「とりあえず一ヶ月。この一ヶ月、ル・ルーの世話をジョゼ姉にしてもらえれば…。どうだ?姉上は受けると思うか?」
「さすがに性格を知り尽くした巧みな文だとは思う」
全く違う方向に働いていた頭のベクトルを、急いでオスカルのそれにあわせて、アンドレは言った。
「そうだろう。ジョゼ姉は、あんなに勝ち気でありながら、なぜかマリー・アンヌ姉上とカトリーヌ姉上には引け目を感じていて、あの二人より褒められると驚くほど喜ぶのが常なのだ」
「それで、あえてお二人を引き合いに出したというわけか」
「そうだ。しかも…」
「未来の王妃の指導、お妃教育など、ジョゼフィーヌさまのツボをチクチクとついている」
「その通りだ。さんざん戦ってきたからな、弱点は知り尽くしている」
「なるほどな…」
「ル・ルーもジョゼ姉との対決となれば、片手間ではいくまい。本気でかからんとな」
「で、ル・ルーの目をジャルジェ家からそらすのだな」
「そうだ。世相乱れた日々、自宅に戻ってまで嵐に遭うのはかなわん」
「手紙はもう出したのか?」
「ああ。今朝のうちにジョゼ姉のもとに届けるようラケルに命じてきた」
「成功を祈るよ」

アンドレは、立ち上がって、食べ終わった昼食のトレイを二人分重ねた。
「おまえが夜勤だったからな」
オスカルがポツリと言った。
「夜が長くて、色々考えていた」
アンドレから返された下書きを引き出しにしまいながら、いたずらの言い訳をする子どものような口調でオスカルは付け足した。
「素晴らしい思いつきだと思うぞ。こんな風に名案が浮かぶなら、俺は頻繁に夜勤をするはめになりそうだ」
アンドレは冗談めかして言った。
だが、すぐに真顔に戻り、
「それは勘弁してほしい」
と、付け加えた。
毒ということばに、あのように反応したのは、おそらく夜勤のため、オスカルの側を離れたからだ。
こうして一緒にいれば、罪を償うことができ、天罰を恐れることもないだろう。
情けない話だ。
俺はこんなにも臆病だったのか。
あの罪に見合う罰が来ることにこんなに怯えている。
自分を責めるアンドレは知らず知らず、遠いところを見ていた。

「おまえが夜勤のときは、わたしも帰らないようにする」
オスカルが一気にアンドレを引き戻した。
「できればシフトを完全に一致させたいが、そうもいかない。だが、おまえはわたしの夜勤にすべてつきあってくれているのだから、これからはわたしもおまえの夜勤の時はここに残る」

オスカルは非常に事務的に、淡々と話を進めた。
内容は、結構甘いものだと自分でも理解していたが、ここは司令官室だ。
通常の表情と声音で、アンドレに思いを告げられるほどには成長している。
そしてこういう言い方をしている間は、アンドレも理性の鎧を堅固にまとい、彼女以上に事務的に応答するのが、二人の暗黙の了解事項だった。

だが、この日の彼は違った。
アンドレは突然、司令官室の椅子に座る彼女の背後に回ると、その細い身体に両腕を回し、白いうなじに自分の顔をうずめた。
熱い息が耳元にかかり、オスカルの全身を硬直させた。
驚愕と官能が同時に彼女を襲い、しばしの沈黙ののちやがて理性が勝利を告げた。
彼女は胸の前で組まれた彼の腕に手をやると、そっと撫でた。
そして、しばらくそれを繰り返した。
「何かあったのか?」
正面を見たまま尋ねた。
だが、彼は答えず、すっと腕をほどいた。
それから重ねた二人分のトレイを持った。
「返してくる」
彼は短く言った。
「ああ、メルシ。早く戻れ」
彼女も短く答えた。

扉のところまで行ったアンドレが振り返り、おおらかに笑った。
「俺の方こそ、メルシ、オスカル」
それを見てオスカルもこぼれるように笑った。


                                   終わり




※この続きの小品に隠し扉から入ることができます。
入口はこのページのどこかです。
すぐわかります(^o^)。






                    

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毒 を も っ て…