解散の号令のあとで、隊長がこっそりフランソワ・アルマンに目配せをしてきた。
何気ない仕草なのだろうが、あの蒼い瞳が自分だけを見て、自分だけにわかる合図をしてくれた、と思うとそれだけで心臓がドキリと脈打つ。
さりげなく寄っていくと、あたりに聞こえないよう、かすかな声で明後日の午後6時になら時間が取れると言われた。
そのささやきが、自分だけに聞こえたのだと思うと、耳まで赤くなりそうだ。
こうなると、アランの恋慕も無理ないことかとフランソワは同情を禁じ得ない。
だが、身の程知らずも甚だしい。
いくらアランが貴族の端くれとはいえ、可能性はゼロだ。
本人だってわかっているのだろうに。
だからつらいのだろうに。
やはり撃沈させなければ、とフランソワは大きなお世話に闘志を燃やした。
背を向けて歩いていく隊長を追いかけ、待ち合わせの居酒屋の名前と場所を告げ、何事もなかったかのようにすぐに遠ざかった。
隊長も、振り向きすらせずに歩いていく。
約束成立だ。



          



フェルゼンは、執事兼爺がトレイにのせて持って来た手紙を、ごく普通に受け取った。
「ジャルジェ家からでございます」
爺に言われるまでもなく、それがアンドレからの返事であることはすぐにわかった。
だが、おくびにも出さず、手紙を机の隅に置いた。
すぐには見ないのか、という顔をしながら、爺は空のトレイを持って下がっていった。
それを確認して、フェルゼンは急いでペーパーナイフで開封した。
「お誘い、光栄に存じます。明後日午後6時にパリのアンリ時計店の前でお待ちしています」
アンドレの手蹟は几帳面で読みやすい。
さんざんオスカルの事務書類を代筆してきたのだろう。
私信というより公文書に近い字体だった。
明後日か。
アンリ時計店といえば、パリでも知らない者がないほど有名だ。
何年か前に優秀な時計技師だったジョベール・アンリが突然行方不明になり、しばらくして戻ってきたときには、両目が不自由になっていた。
どうやらひどい事件に巻き込まれたらしい。
それを気の毒に思った顧客が出資してくれて、技師を辞め、販売店を開いた。
その店がアンリ時計店である。
実は出資者がオスカルの姉、オルタンス・ド・ラ・ローランシー伯爵夫人であり、ひどい事件というのがローランシー伯爵夫人の知人が起こしたものだったのだが、このことは、もちろん、フェルゼンだけでなく、パリの誰一人知らない。
フェルゼンは、手紙を封筒に戻しながら、笑みを漏らした。
さてアンドレはどんな店に連れて行ってくれるのだろう。



      



営舎の夕食はまずくもなければうまくもない。
だが品数は、隊長が交代してから一品増えた。
それをかっ喰らいながら、フランソワは隣のアランに声をかけた。
「ちょっと、つきあってくんないかなあ」
「どこへ?」
目線もあわせずアランが聞く。
「相談したいことがあるんだ。明後日の晩、どうかな?」
「金を貸せっていうんならお断りだぜ」
「違う違う!金はこっち持ちだ」
アランはフォークを置いた。
そしてまじまじとフランソワを見た。
「珍しいこともあるもんだ。それならいいぜ」
「じゃあ、明後日、解散して着替えたら一緒に出よう。行き先はA demain.(アドゥマイン)だ」
「A demain.?白山羊亭じゃないのか?」
「あんまり人に聞かれたくないんだ。ちょっと高いけど、あそこなら知った奴は来ないだろ?」
「ああ、確かに。だがなんだ?よっぽど深刻な話なのか?」
「まあね…。じゃ、頼んだよ」
フランソワはさっさと食器を片付けると席を立った。
アランは怪訝そうに首を振った。
あいつ、なんだってそんな高い店に連れてこうっていうんだろう。



        



帰路の馬車の中で、オスカルはいつもより雄弁だった。
フランソワとの飲み会が決まり、それを黙っていることに対する罪悪感を払いのけるため、とは思いたくないが、不思議なくらい言葉が続いた。
一方アンドレも、いつもより聞き役に徹した。
フェルゼンにこっそり手紙を届けたことが後ろめたい気がして、とは思いたくないが、機嫌良く話すオスカルに、知らず知らずのうちに、常より熱心に相づちを打っていた。
話題は、オスカルが今度の休暇に母と訪問するカトリーヌのことだったが、いつの間にか姉上連中の話になり、やがて、以前巻き込まれたオルタンスの領地での恐ろしい事件に移っていった。
「そういえば、今度おまえが行く時計修理の店ってあのときのムッシュー・ジョベールのところか?」
ふとオスカルが聞いてきた。
「うん?ああ、そうだ。もうムッシューは修理できないが、息子や弟子がいて、大概のものなら直してくれると聞いている」
「そうか。良い腕だったのに、むごいことだった」
「そうだな。だがオルタンスさまのお計らいで、今では立派な時計店の店主だ。それが救いだよ」
アンドレは遠くを見つめる目をした。
失明の危機を脱した自分がえらそうに言えることではないが、完全に光を失った時計職人が、ぞれでも時計と離れず暮らしていけることを彼は心から喜んでいた。
「おまえの父上の形見だ。しっかり修理してもらえ」
オスカルはアンドレの家族に対していつもとても優しい。
「ありがとう」
礼を言いながら、その時計店のあと、こっそりフェルゼンと会う約束のアンドレは、話題をあまりそこに持っていきたくはなかった。
だから少し会話を戻した。
「カトリーヌさまも、おまえが来ると聞けば、随分おもてなしに力を入れられるのだろうな。場合によっては晩餐もあちらではないか?」
「うん?ああ、そうだな。母上もそのおつもりかもしれない」
オスカルはアンドレから目をそらして、窓の外を見た。
すでに姉からは晩餐を勧められていた。
「やっぱりそうか。めったにないことだからゆっくりしてくるといい」
アンドレはオスカルの家族に対していつもとても優しい。
「ありがとう」
礼を言いながら、実は晩餐を辞退してパリでフランソワと会う約束のオスカルは、この話題を終わらせたかった。
だから会話を打ち切った。
「少し疲れたから休む。着いたら起こせ」
馬車の中に静けさが戻った。



※A demain.→「また明日」というフランス語の挨拶




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