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「わたしとオスカルの出会いは最悪だったが、きみはどうだったんだい?」
フェルゼンはチキンを器用にナイフで切り分けて、それから上品に口元へ運んだ。
知り合いが来ていると聞いて声量はかなり下げている。
店内が賑わってきているので、よほどのことがない限り、フランソワに気づかれることはないと思うが、それでもフェルゼンの用心深さにアンドレは感謝した。
そして自分もフェルゼンよりさらに小さな声で答えた。
「伯爵以上に最悪でした」
「ほう!興味深いな。ぜひ教えてくれ」
内緒話にはもってこいの話題だ。
ヒソヒソと二人の男が顔を寄せ合っているのは、見る人が見ればなかなか怪しいが、幸いついたてがすべてを隠してくれている。
こちら側はある意味別世界といえた。
「わたしの場合は伯爵と反対だっのです」
「というと?」
「伯爵はオスカルと初めて会ったとき男だと思われた。そしてあとで女だと教えられた」
「そうだ。初対面であれが女だと見抜ける人がいたらお目にかかりたいものだ」
フェルゼンは決して自分の観察眼が劣っていたわけではないと主張した。
王妃様だって、妹のソフィアだって皆そうだったと聞いている。
「わたしは祖母からお嬢様の遊び相手として引き取られると聞かされていました」
「なるほど」
「それはそれはきれいなお嬢様だから、お顔に傷などつけるなときつく言われていました」
クスクスとフェルゼンが笑った。
「ところが顔に傷がついたのはきみの方だったわけだ」
「ご明察!会ったその日に剣を渡され庭に引きずり出されました」
「そりゃまた気の毒に…」
フェルゼンはアンドレのグラスにシャンペンを注いでくれた。
「人生ってはかないもんだと思いましたよ」
アンドレもフェルゼンのグラスに注ぎ返した。
「初対面で裏切られたわれわれふたりに乾杯!」
気持ちのいい酒だった。
こういうふうに飲むなら決して悪酔いはしない。
酒はこうやって飲むものだ。
無理をしてでも出てきてよかったとアンドレは心底思った。
そのとき、突然アンドレの耳に大きな声が飛び込んできた。
そしてその中のワンフレーズが脳天を貫いた。
「だから、隊長!お願いです!今、ここで言ってください!!」
「隊長だって?!」
押し殺した声でうめいた。
「どうした?」
問いかけるフェルゼンを手で制し、アンドレはついたてギリギリに耳を寄せた。
だがフランソワの声はざわめきの中に埋没した。
もともとがあまり大きな声を出す男ではない。
だからこそ、こうして声を上げたときだけ聞き取れるのだ。
顔をついたてから出せばもう少し聞こえるのだろうが、それは絶対にできない。
アンドレはただ待った。
再びフランソワの声が聞こえるのをじっと待った。
待つことには慣れているのだ。
「でないとあきらめきれないんです!」
次の言葉が飛んできた。
なんの話だ?
誰と話しているのだ?
見たい、見たい!
アンドレの顔がこわばっていく。
だが新たな客が入ってきたらしく、店内は一層ざわついてきた。
フランソワの声も、そしておそらくそれに答えているであろう相手の声もまったく聞こえなくなった。
「すみません。知り合いの声が隊長と言ってるように聞こえたもので…」
アンドレはフェルゼンに視線を戻した。
「隊長って、まさかオスカルのことか?」
「まさかとは思うのですが…」
フランソワの声に間違いはない。
視力を失いかけたとき、耳で仲間を聞き分けられるようかなり注意深く衛兵隊の連中の声を聞くようにしたのだから。
そのフランソワが隊長と呼ぶのはオスカルしかいない。
だがオスカルは奥さまと共にベルサイユのカトリーヌさまの元へ行っているはずだ。
パリの酒場に、しかもフランソワと来るはずはないのだ。
「空耳じゃないのか?」
フェルゼンが常識的な意見を述べた。
「こっそり来た事へのうしろめたさがあるんだろう」
そう言われればその通りなので、アンドレはついたてにはり付けた耳を一旦はずした。
いつもオスカルのことを考えている証拠だな。
フェルゼンがチーズを切り分けた。
「これもなかなかいけるぞ。良い店を知っているな」
スッとアンドレの取り皿に入れてくれた。
立場が逆だ。
アンドレは非常に恐縮した。
「えー!!」
大声が上がった。
今度こそアンドレは心臓が止まるほど驚いた。
フランソワの声に混じって聞こえたのは、間違いなくオスカルの声だった。
これはたとえ両耳をふさがれていたって聞き間違えたりはしない。
さらに次の叫び声でアンドレは卒倒しそうになった。
2回目の「えー!!」はオスカルとアランの声だったからだ。
オスカルとフランソワとアラン。
3人だ。
間違いない。
そう思った時、アンドレをさらに確信させる声が聞こえてきた。
「てめえ~!!よくもこんな茶番につきあわせやがって!!」
この怒鳴り声は100パーセントアランだった。
続いてけんかが始まったようで椅子がガタガタと動く音が聞こえた。
「アラン!やめないか!人目があるんだぞ!!」
その一声で騒ぎは収まった。
一瞬シーンとした店内が元通りのざわめきに戻った。
「アンドレ…。あれ…はオスカル…だな?」
ついたてに身を寄せ大柄な身体を隠すようにしてフェルゼンがささやいた。
「は…い。間違いありません…」
「なぜだ?姉上のところへ行ったのではなかったのか?」
至極まともな問いかけにアンドレは答えるすべがなかった。
オスカル、どうしてここにいるのだ?
アンドレの胸中も疑問がぐるぐると旋回していた。
「とりあえず、我々がここにいることは気づかれていない。いいか、彼らが店を出るまで、絶対に立ち上がるなよ」
フェルゼンに言われるまでもなかった。
ここでオスカルと顔を合わせるわけにはいかない。
フェルゼンとの密やかな席を嵐の中に投げ入れるわけにはいかないのだ。
アンドレはフェルゼンがきれいに切り分けてくれたチーズを無理矢理口に放り込んだ。
そうしながらも、アンドレは全身が耳になったようについたての外の声に集中していた。
自分の知らないところでオスカルが部下とはいえ、アランやフランソワと酒席を共にしているなど、到底甘受できるものではなかった。
「アンドレ、顔色が悪いぞ、大丈夫か?」
心配そうなフェルゼンの瞳が眼前にあった。
「ああ、すみません、ちょっと驚いてしまって…」
「わたしも驚いた。基本的にわたしは、オスカルには驚かされるものだと理解しているはずなのだが、それでも驚いた」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだよ。出会いからして驚愕だったし、生きざまも驚嘆するし…」
ドレス姿にもそれはそれは驚いた。
これはあまりアンドレの前では言わない方がいいという気がして飲み込んだが、それ以外は特に問題は無いと思い、続けた。
「近衛を辞めた時も、大概びっくりした。一番最近は馬車が襲われた時かな…。まさかオスカルがあの中にいるとは思わなかった」
いや違う。
もっと驚いたのはそのときのオスカルの言葉だった。
「わたしのアンドレ…」
言った本人も驚いていたのが、不思議にかわいらしく感じた。
だが、それも言わないほうが良いのだろうか。
言われた当人が目の前にいるのだけれど。
「オスカルと一緒に来ているのは部下なのか?」
ふと思いついて聞いてみた。
「ええ、そうです。二人とも衛兵隊です」
「オスカルは姉上のところに行くときみには言っていたのだな?」
「はい、奥さまも一緒に馬車に乗って行かれましたから…。それに間違いはないはずなのです」
「ということは…あれだな」
「…?」
「つまり我々と同じということさ」
「我々と?」
「そう。内緒で動きたかった…」
アンドレはゴクリと唾を飲み込んだ。
オスカルに内緒でフェルゼンとここに来ているアンドレ。
それと同様、アンドレに内緒でアランやフランソワと飲みに来ているオスカル。
複雑な思いが駆けめぐる。
「ただ、違うことがひとつある。こちらのはまだ秘密が保たれているが、あちらのはすでに露見している、ということだ」
アンドレの額に少し脂汗がにじんできた。
「つまり断然こちらが有利な位置を取っているというわけだ」
フェルゼンは実に愉快だった。
現在、オスカル、アンドレ、フェルゼンの三者でもっともリスクの少ない立ち位置にいるのは間違いなくフェルゼンだ。
そしてもっとも不利なのがオスカルだ。
彼女だけが、まだなにも知らない。
「君としてはちょっと面白くないのではないか?」
フェルゼンは好奇心一杯になってきた。
アンドレの顔色の悪さの理由は明白だ。
「まあ…そうですね、自分を棚に上げているのはわかっていますが、あまりいい気はしません」
アンドレの正直な告白にフェルゼンはニヤリと笑った。
「よし、わかった。わたしに任せたまえ」
それはかの馬車襲撃事件のさなか、オスカルの叫びを聞いたときと同じ顔だった。
フェルゼンはアンドレがアッと叫ぶ間も与えず立ち上がった。
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