宴 会
-9-

ついたて越しに見ると、店内は想像以上の数の客であふれていた。
不景気だというのに、ここまで人が集まるのが不思議なくらいだ。
結局のところ、どんな時代でも人は酒に吸い寄せられるものらしい。
まして時勢に勝てず閉店するところが相次げば、残された良質な店に人が集うのは自然な流れともいえる。
フェルゼンはゆっくりと首を回して目当ての人物を捜した。
たとえどれほど人がいようと、彼女ほど目立つ姿形はそうそういるものではない。
背中を見せてはいても、波打つ金髪がすぐに居場所を教えてくれた。
扉からごく近くの席で、普段着に軍靴という服装の男二人と向かい合って座っていた。
アンドレがフェルゼンのために予約した半個室の席と、フランソワがオスカルのために予約したそれとの差が歴然としている。
だが貴族であるフェルゼンにとってそれは当然のことであり、今回の場合、それが自分たちを助けたのだから、そこに浮き世の不条理など見るはずもなかった。
彼らがなぜ普段着でいながら靴だけは軍靴のままなのかも、フェルゼンの知るところではなかった。

オスカルと男たちは先程まで揉めていたようだが、今はずいぶんなごやかに会話していた。
黒髪の男はまだ憮然たる面持ちだが、もう一人の方は嬉々としている。
オスカルも先程の怒鳴り声とは一転して機嫌はいたって良さそうだった。
フェルゼンは引き留めようとするアンドレを残して半個室から出ると、オスカルのほうにゆっくりと歩み寄り、背後からポンと肩をたたいた。
なんだという風に振り返り、そこにフェルゼンを認識したオスカルは、わずかに眉をひそめた。
意外なところで意外な人物を見たという顔だ。
「めずらしいところで会うものだな、オスカル」
「フェルゼン、どうしてここに?」
「わたしだって時には酒くらい飲みに来るさ」
フェルゼンの態度はあまりにも自然だ。
本当はこんな物騒なパリの居酒屋にいることなど、あり得ないほど不自然なのだが、そんな素振りは全く見せない。
「こちらの二人は?」
「部下だ」
「隊長の奢りか?なかなかいい上司だな」
決して嫌味に聞こえないのがさすがである。
「隊長、おれたち、はずしましょうか?」
フランソワが恐る恐る会話に口をはさんできた。
以前に宮殿警備で一度出くわした相手だ。
確か陸軍連隊長。
あの夜、隊長を拉致し、アンドレに銃をぶっ放されたのだから、あまり思い出したくないことを思い出させる人物だ。
しかも確か王妃の愛人と世上名高い人物でもあるはず。
こんなところになんで飲みに来ているのか。
フランソワの腰はすでに浮いていた。
オスカルよりも正確に違和感を感じ取っている。

「遠慮するな」
言い切ったのはオスカルではなくフェルゼンだった。
「ここで会ったのも何かの縁、一緒にやろうじゃないか」
半ば強引にフェルゼンはオスカルの隣の椅子に座った。
アランが露骨にいやな顔をした。
大貴族の持つこういう悪気のない傍若無人さが彼は大嫌いだ。
人にはそれぞれ侵されたくない領域があるのだ。
「やっぱり帰ろう」
アランはフランソワを促して席を立った。
そのときアランの視界にアンドレが入った。
やはりじっとしてはいられなかったのだ。
アンドレはついたての向こうで立ち上がりこちらを凝視していた。
「アンドレ…!」
アランの声にオスカルが振り返った。
フェルゼンが顔をしかめた。
まだ顔を出さなくてもいいのに。
だが仕方がない。
アンドレの気持ちは充分わかる。

オスカルの顔が、先程フェルゼンを認識した時とはまったく違う表情になった。
「なぜアンドレがここに…?」
美しい蒼い瞳がこれ以上ないほど見開かれ、口は真一文字に結ばれていた。
アランとフランソワも鳩が豆鉄砲を食ったように立ち尽くしている。
陸軍連隊長兼王妃の愛人より、はるかに始末の悪い人物の登場だった。
アランが舌打ちした。
「やっぱり出てきやがった」
アランにとってオスカルとアンドレは常に二個一なのだ。
それはわかっていたはずなのに。
アランにアラジンのランプの魔神のように言われたアンドレは、こちらも困惑した表情のまま、ついたてから出てオスカルたちの方に歩いてきた。
表情は相当暗い。
フェルゼンがあわてて取り繕った。
「時計店でばったり会ったんだ。それでちょっと一緒に食事でもとわたしが誘った」
たった今思いついたばかりの筋書きだが、説得力はあった。
だがその言葉がオスカルに届いているのかどうか。
近づいてきたアンドレを見つめるオスカルはまだ言葉が出ないようだ。
「おまえ、姉上のところに行っていたのではなかったのか?ついさっきアンドレにそう聞いたのだが…」
誰もが沈黙しているなかで、フェルゼンだけが冗舌だ。
オスカルを少しずつ追い詰める。
彼はちょっと意地悪になっていた。
旧友で親友であるオスカルだが、これまでさんざん驚かされてきたのだから、ちょっとくらい仕返しをしても許されるだろう。
オスカルを、ここまで驚かせているのがすこぶる小気味よい。
無論、驚かせているのが自分ではなくアンドレの出現だということは百も承知だ。
だが、だからこそ愉快なのだ。

口ごもるオスカルを置いて、アランとフランソワがそっと席を離れかけた。
事態の正確な把握は困難だが、おぼろげな全体像は見える。
修羅場になるかもしれない、との直感が怒濤のように押し寄せてきていた。
だが近づいてきたアンドレが二人の前に立ちふさがった。
しかたなく、本当にしかたなく動きを止めた。
「あの…アンドレ、えっと…」
フランソワがもごもごと何か言おうとして結局黙った。
アンドレ抜きで会いたいと言ったのはフランソワだ。
なのにアンドレに出くわしてしまった。
言葉が出てこないのも無理はない。
この陸軍連隊長に庭園で初めて会ったあと、オスカルを連れ出した衛兵隊員にアンドレは銃をぶちかましてくれた。
アンドレはそれ以外でも発砲したことがある。
日頃おとなしいアンドレは切れると恐ろしいのだ。
そして今の状況はアンドレがキレるのに充分な条件をそろえていた。
フランソワは茹でた青菜のごとくしおれた。

そしてそのフランソワの申し出を受けたのはオスカルだった。
理由は何であれ、アンドレに嘘をついたことは間違いない。
しかし、オスカルは茹でた青菜にはならなかった。
嘘をついたわけではない。
内緒にしていたことがあっただけだ。
「フランソワから相談があると言われたものでな…」
腹をくくったのだろう。
オスカルは立ち上がると、事実を述べた。
「こっそり?」
フェルゼンは追求の手を弛めなかった。
痛いところをついていく。
「ああ。そういう希望だったから」
これも事実だ。
「腰巾着がいっつも一緒じゃ、言えねえことがあるんだよ」
今まで黙っていたアランが初めて口を開いた。
アンドレの頬がピクリと動いた。
「うん、そうなんだ。どうしても隊長だけに聞いてほしいことがあったんだ」
フランソワの顔は真っ赤だった。
青菜からりんごになったフランソワは全力で訴えた。
だって本当のことだ。
まさかアンドレが今、銃を携帯しているとは思わないが、とにかくアンドレを怒らせたくはない。

「フェルゼン伯爵、席へ戻りましょう」
衆目の注視の中、アンドレは静かにフェルゼンに声をかけた。
寂しそうな表情が傍目にも明らかだ。
「わたしに聞かれたくない話だというのです。いれば迷惑でしょう」
どうやら怒りではなく、悲しみのほうに感情が動いたらしい。
しょんぼりとついたてのほうに歩き出した。
アンドレは怒っても手に負えないが、いじけても大変なのだ。
「おい、アンドレ!」
フェルゼンが驚いて後を追う。
賑わう店内で小走りに移動している店員を器用にさけて、アンドレは肩を落としたまま、ひとり席に戻っていった。
意気揚々とついたてから出てきたフェルゼンもやむなくアンドレに続いて席に戻った。
オスカルはアランとフランソワのもとに取り残された。

「た、隊長…」
フランソワがホッとしつつ、呼びかけた。
アンドレが切れなかった。
よかった。
いじける分には被害はない。
何日でもおこもりしてくれて構わない。
だがオスカルは無言だった。
「あっちに行きたいんなら、さっさと行ったらどうです?」
アランの言葉に今度はオスカルの頬がピクリと動いた。
「こっちの話はもう終わってる。フランソワの訳のわからない茶番劇に、おれもあんたもつき合わされちまっただけなんだからよ」
「すみません…」
「まったく、なんだってこんなこと思いついたんだよ?」
「アランのためだと思ったんだけど…」
「それこそ迷惑以外のなんでもないぞ」
アランがフランソワの頭をポコリとこづいた。
「迷惑なぞではない」
オスカルはまだ立ったまま、ついたてのほうをにらみつけていた。
「え?」
「迷惑だと思ったことはない」
「あの、おれたちの告白は迷惑じゃなかったんですか?」
とりあえず座り直して隊長の顔を見る。
「隊長も座ったらどうです?」
「わたしが迷惑だと思うはずはない」
「ありがとうございます、じゃ、仕切直しでもう一本いきましょう」
フランソワが店員を呼びつけた。
「ボトル一本追加!」
あわてて走ってきたウエイターにぶつかりそうになりながらオスカルが歩き出した。
「隊長、どこへ?」
「ほっとけよ。行くとこなんて決まってるだろ?」
アランがウエイターからボトルを奪い取った。
「今日は飲み放題だ。全部アンドレにつけとけよ」
アランはなみなみとグラスに酒を注いだ。

オスカルは怖い顔でつかつかとついたてに歩み寄った。
「迷惑だと思うはずがない!」
突然聞こえてきた号令のような声に、差し向かいで酒を酌み交わしていたフェルゼンとアンドレの手が止まった。
「オスカル…!」
フェルゼンがあわてて立ち上がりついたてを回ってオスカルに近寄った。
オスカルはそんなフェルゼンを完全に無視し、彼が今まで座っていた席に一片のためらいもなく腰掛けた。
目の前で座席を取られたフェルゼンは渋々アンドレの隣に座り直した。
オスカルは真っ正面からアンドレをにらんだ。
怖い!
フェルゼンは思わず身をすくめた。
「アンドレのことで相談がある、と言われたのだ。だからおまえに言えなかった。それだけだ。おまえがいれば迷惑などと思ったことは一度もない」
こんな怖い目で、こんな威勢のいい言葉で、オスカルは愛の告白をするのか。
しかもわたしの眼前で。
フェルゼンは呆然とするしかなかった。
ひょっとして自分はオスカルには見えていないのではないだろうか。
いや、おそらくこの賑やかな店内のすべての人がオスカルには見えていないのかもしれない。

だがアンドレは少しも怖がっていなかったし驚いてもいなかった。
慣れた風でさえあった。
事実、こういう場面には慣れていた。
オスカルはアンドレに愛を告げるとき、いつもなぜか口調が怒っているのだ。
「結局なんの相談だったんだ?」
アンドレはいたって穏やかに聞いた。
「それがよくわからなかった」
「おれのことだったんだろう?」
「そう思って聞いていたら別人だった」
「別人?」
「男Aが隊長に惚れているが、あきらめろと言ってくれ、という話だ」
「なんだ、それは?」
アンドレではなくフェルゼンが声を上げた。
「わからん。結局Aが誰かも最後までよくわからなかった」
「Aというならおれじゃないのか?」
ただひとつの瞳が問いかけた。
「はじめはわたしもそう思って聞いていたのだ。だが、どうやら違ったらしい。フランソワはアランのことだと言い、アランはフランソワのことだと言っていた」
「無茶苦茶だな。おまえの部下は大丈夫か?」
たとえどれほど存在を無視されてもフェルゼンは会話に加わり続けた。
「アランがフランソワを殴り始めたので制止して、なんとか酒を飲み始めて、ようやく落ちついたらフェルゼンが来た」
フェルゼンの問いに答えているようで、オスカルの視界にフェルゼンは入っていない。
顔は正面を向いたままだ。
「要するにアンドレの件というのはダシだったんだな」
フェルゼンは決してあきらめず、しつこく質問を続けた。
「今から思えばそうだ」
「だが、おまえはそう言われれば断れない。アンドレのことだと言われれば…」
フェルゼンはようやくオスカルと会話が成立したことに満足し、すべてお見通しだと言わんばかりに解説した。
まったくその通りだったが、オスカルはフェルゼンの方には視線をめぐらさない。
ただアンドレをにらみつけている。

「よくわかった」
アンドレは微笑んだ。
「あいつら、おまえと飲みたかったんだろう。戻ってやれよ。おれはここで伯爵と飲んでるから」
オスカルの目が一気になごんだ。
まるでアンドレが微笑むのを待っていたかのようだ。
「いいのか、アンドレ?」
オスカルではなくフェルゼンが聞いた。
どこまでも会話に入りたいらしい。
「伯爵さえよろしければ、このままわたしとおつきあいください」
アンドレはオスカルと違って、ちゃんとフェルゼンを見て頭を下げた。
フェルゼンはすこぶる満足した。
「無論だ」
「さあ、オスカル。あいつらをあまり待たせると悪い。どうせ勘定はこっち持ちだろうがな」
アンドレの声は暖かかった。
もう寂しげな様子はなかった。
「わかった」
オスカルは素直にアンドレの提案に従った。
今さらアランとフランソワを放置するのは無責任だ。
かといって、アンドレはともかくフェルゼンを同席させれば間が持たない。
立場が違いすぎて共通の話題がないのだから。
当初の予定通り、オスカルはアランたちと、アンドレはフェルゼンといるのがもっとも自然だった。

元の席に戻りかけたオスカルの背にアンドレはふと思い出して尋ねた。
「オスカル、何で来たんだ?馬か?」
「いや、うちの馬車で送らせた。馬車は母上のもとに戻した。帰りは辻馬車を拾うつもりだった」
「そうか。おれは馬できている。終わったら声をかけてくれ、一緒に帰ろう」
オスカルはにっこり笑いそれからコクリとうなずいた。
そしてアランとフランソワの元に戻っていった。
ついたての向こうから、フランソワの歓声が聞こえてきた。
アランも表面上渋面を装いながら、心中はうれしいはずだ。
その証拠に二人が帰る気配もなく、またオスカルも戻っては来なかった。

「いいのか、アンドレ?」
フェルゼンはちょっと残念そうだ。
実は修羅場を期待していたのだろう。
高みの見物をするつもりだったようだ。
「いろいろお気遣い頂いてすみません」
「いや、それはまったく気にしなくていい。オスカルのあの顔を見られただけで私は積年の願いがかなったのだから」
「そうなんですか?」
「オスカルには驚かされてばかりだったと言っただろう?今日その何倍分も驚かせてやったじゃないか」
「なるほど…」
「まさかこっちもこっそりだったとは思うまい。してやったりだ」
そう、それで充分だ。
本来の趣旨に戻ろう。
テーブルの上にはチキンとチーズがきれいに並んだままだった。
男同士の心地よい会話が再び始まった。
フェルゼンは今ならもういいだろうと思い、自分が一番驚いた事について語り始めた。
「たまたま暴徒に襲撃されている貴族の馬車に出くわして、救援に駆けつけたらオスカルだったのだ」
「来てくださらなかったらと思うと今でもぞっとします」
「なんとかオスカルだけ救出したが、あいつはきみがまだあの中にいると言ってきかないんだ」
こんなところで命を落としたいのかと叱責するフェルゼンにオスカルは叫んだ。
「わたしのアンドレ!」と。
アンドレは黒い瞳を瞬かせた。
「それで、わたしはもう一度暴徒の中に戻ったのだ。おとりとしてね」
フェルゼンはニヤリと笑った。
アンドレを助けるためにわざわざ自ら名乗りあげ、暴徒を引きつけておき、その間にオスカルにアンドレを救い出させた。
アンドレが初めて知った事実だった。
「知りませんでした…」
「まあ、さすがにオスカルから言わないだろうし、わたしも言うつもりはなかった。だがこれが生涯でもっともオスカルに驚かされたことだと、今なら言ってもいいような気がしてね」
最後の一切れのチーズにフェルゼンはフォークを刺した。
アンドレは深い感謝を込めて、フェルゼンのグラスにシャンパンを注いだ。
フェルゼンはやはりどこまでも紳士だ。
こうしてひとときをともにできて、互いに幸福だった。

「男同士、しっとりやっているつもりだろうが、そうはいかないぞ!」
突然、オスカルの声が頭上から降ってきた。
アンドレがあわててグラスを置いた。
「オスカル!アランたちはどうした?」
「もう充分飲んだといって帰った。アンドレ、あとであいつらの分を払っておいてくれ」
「わかった…」
「では、わたしたちも帰ろうか」
フェルゼンが財布を出そうと懐に手を入れた。
「何を言う?こっちはこれからじゃないか」
「えっ?」
「フェルゼン、時計屋に何の用があったんだ?」
オスカルの目がいたずらっぽく笑っている。
「それは…、その…壊れた時計の修理を…」
「フェルゼン家ともあろうものが、主人みずからそんなことをするのか?」
「あっ…いや…、ちょうどパリに出るついでがあって…」
「時計屋に行ってヤンに聞けばすぐばれるぞ」
尋問は的確だ。
「さっきここの店員に確認した。この席は前もって予約されていたと。ばったり会った人間がそんなことできるか?」
フェルゼンはアンドレに救いを求めた。
だがアンドレは悲しそうに首をふるばかりだ。
「しかも予約したのは黒髪のほうだった」
万事休す。
「さあ、フェルゼン、今からわたしが酒の飲み方を教えてやろう。アンドレ、まさか止めたりはしないだろうな?」
オスカルは定員を呼びつけると店一番のおすすめを片っ端から持ってくるよう言いつけた。
「アランとフランソワには欲しいボトルを一本ずつ土産に持たせてやったからな。それはフェルゼンにつけておいた。まさか嫌とは言わないだろうな」
フェルゼンは思わず財布を握りしめた。
顔面蒼白の男二人と、喜色満面のオスカルとの果てしない宴会が始まろうとしていた。
フェルゼンがA demain.と言えるのはいつになるのだろう。
彼は恨めしげに壁にかかった看板を見上げた。
「店の名前もAだったのか、なかなかいい名前じゃないか」
オスカルはニヤリと笑い、三つのグラスにシャンペンを注いだ。


                          -おわり-

※A demain.(アドゥマイン)フランス語で「また明日」という意のあいさつ


※おまけの話があと少しある予定です






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