結局、アランは夢などひとつも見なかった。
いや、眠りが訪れてくれなかったのだ。
明かり取りの窓からのわずかな光りを感じて、ジャンが声を出した。
「朝だよ。みんな、起きろ。」
アラン同様寝付けなかったものたちが、すっと身体を起こした。
フランソワのように幸運な眠りに恵まれたものたちはゴソゴソ、モゾモゾとするばかりで一向に目を開けようとはせず、起きたものと寝ているものが半数ずつにわかれた。
「今日も蒸し暑くなりそうだな。」
額に汗をにじませながらラサールがポツリとつぶやいた。
衛兵隊に勤務していれば、一日中こき使われて、たまには休みがほしいものだ、とこぼしあったものだが、さて、何もせずに閉じこめられていると、忙しい仕事が無性に恋しくなる。
もしもここから出られたら、どんなにか一生懸命任務に励むのに…。
誰もが同じ気持ちを抱いていた。
朝食は出なかった。
動けば腹が空くから、誰も動かない。
声を出すのも案外体力がいるので、昨日辺りから、仲間内の会話も減っている。
アランはいつもなら起きない奴のそばで大声を出して起こすくせに、今日はそんな気力が湧いてこないようで、ぽーっとしている。
いつまで、いつまで、ここにいるのだろう。
外の世界に訪れた今朝の夜明けは、自分たちにも本当に来るのだろうか。
たとえ隊長がどれほど心を砕いてくれても、この世にはどうしようもないことがある。
そんなことは重々知っていたが、隊長と出会って、どうしようもないことでも、なんとかなるんじゃないか、と思うようになっていた。
女でも軍人が務まる。
貴族でも平民と心を通わせられる。
それを目の当たりにしたから、できないことは、できないと思うからできないだけで、やろうと思えば、ほんの少しではあってもできるようにんるんじゃないか、と思うようになっていた。
壁にもたれてぼんやりとしていると、急に眠気が襲ってきた。
どうやら昨夜眠れなかったツケが回ってきたらしい。
どうせ飯も出ないのだ。
アランは再びからだを横たえ、目を閉じた。
一旦は起きた連中も、アランにならってそれぞれの場所に寝転がった。
獄中生活の疲れが一度に出たようだった。
今度はしっかり眠れた。
だが、眠れすぎて、やはり夢は見なかった。
相当深い眠りに落ちていたアランが目覚めたのは、看守の大声のせいだった。
昼食の時間だと叫んでいる。
入口に一番近いジャンが看守からトレーを受け取り歓声を上げた。
その声でアランは完全に覚醒し、起き上がった。
いつもなら大きなパンが二本ばかりなのに、今朝は12人に一つずつパンがついている。
しかも一個が結構な大きさだった。
めずらしいこともあるものだ。
起き出したものたちが大喜びでパンを配りはじめた。
ジャンが一番に取り、半分に割って食らいついた。
「あれ?」
ジャンの動きがとまった。
パンの中から小さな紙片が出てきた。
「なんだ、これ?」
アランがいそいで紙片を取り上げた。
小さく文字が書いてあった。
「あきらめるな。」
アランが声に出して読んだ。
皆、驚いて顔を見合わせた。
「隊長からだ。きっとそうだ。」
誰ともなく叫んだ。
「そうだ、そうだ。」
「そうに決まっている。」
「隊長は俺たちの釈放のために動いてくれてるんだ。」
口々に歓声が洩れた。
「しーっ!静かに!看守に気づかれる。」
アランがたしなめた。
皆、あわてて口をつぐんだ。
「ほかのパンはどうだ?」
アランが皆に聞いた。
急いでピエールが自分の分を割った。
やはり紙片が出てきた。
「ビラの切れ端みたいだ。」
「見せてみろ。」
アランがひったくる。
それはあきらかに印刷物の一部だった。
「フランス」
インクが擦れて見づらい中、かろうじてその言葉が読み取れた。
全員が、急いで自分の分を割り始めた。
どのパンからも小さな紙片が出てきた。
それらを一カ所に集めアランが継ぎ合わせはじめた。
だが興奮して手元がぶれ、なかなかうまく並べられない。
「貸してよ!」
器用なラサールがアランを押しのけ、紙片の前に座った。
てきぱきと形を確認しながら12枚の紙片を床に並べていく。
最初に出てきた紙片はどうやら単独で、これだけは手書きだった。
そして残りの11枚でひとつの文章になっていて、こちらは印刷物のようだった。
「フランス衛兵隊の同志の釈放を要求する。心あるものは……集まれ。」
ラサールが声に出して読んだ。
12名がそろって顔を見合わせた。
そして呆然としたまま並べられた紙切れを見つめ直した。
「俺たちの釈放を求めるビラが作られたということだな。」
アランがつぶやいた。
「誰が作ってくれたんだろう。」
「わからん。だが、誰かが俺たちのことを知り、ビラをまいて市民に呼びかけてくれている。」
さざなみのような静かな感動が皆の胸に届いた。
アランはじっとビラの切れ端を見つめた。
パリ巡回中、何度も街頭演説を見た。
新聞社の連中が、ビラを配っているところにも、数え切れないほどでくわした。
民衆は、それを受け取り、字の読めるものが読み、口伝えに内容を広めていっていた。
隊長が馬上で倒れたときも、シェイエスの演説の最中で、彼のパンフレットはパリ中で読まれていた。
だとすれば、このビラも…。
誰かが、俺たちを助けるために動いている。
アランは確信した。
隊長かどうかはわからない。
だが、俺たちは見捨てられていない。
平民議員への武力行使を拒否した自分たちのために、平民が、市民が立ち上がろうとしてくれている。
「グスリ…。」
ピエールが鼻を鳴らした。
「誰だか知らないけど…、あり…がとう…。」
ジャンが小さな声でつぶやいた。
「神さま、ありがとうございます!」
フランソワが胸の前で十字を切った。
全員がそれにならった。
「さあ、食おう。しっかり食って、体力をつけとけ。間もなく釈放されるぜ。」
アランは思い切り景気よく仲間に声をかけた。
おお!と答えて、皆は一斉にぱくつき始めた。
それはいつものパンと違ってずっとずっと美味かった。
食べるほどに力が湧いてくるような、そんな味がした。
疲れ始めていた兵士の顔に輝きが戻ってきた。
さらに不思議なことに、アランは隊長への熱い想いが一層かきたてられるように感じていた。
しかも、その思いはなぜか突き抜けた明るさを伴っていて、決して揺らぐことのない確信のような形で心を占め、アランは久方ぶりに切なさから解放されていた。
堂々と片想いをしていればいいんだ。
たとえ報われなくとも、男女の愛はなくとも、もっともっと深いつながりがあるのだ。
アランは噛みしめるようにゆっくりとパンを食べた。
「ねえ、あんな紙切れで衛兵隊の人たち、わかったかしら?」
ロザリーは夜更けて帰宅した夫の上着を脱がせながら聞いた。
「大丈夫だ。奴らは馬鹿じゃない。誰からかはわからなくても、誰かが自分たちのために動いていることは理解できたはずだ。それだけで随分気持ちの持ちようが違う。」
差し入れのパンは自宅でロザリーが焼いた。
ベルナールから渡された紙片を12個のパン生地に練り込んで、できあがるとアベイ牢獄に持って行った。
そしてアンドレから預かった少なからぬ額の袖の下とともに、看守に渡した。
収監されている兵士の姉だ、ぜひとも弟に差し入れて欲しい、と大きな菫色の瞳をうるうるとさせて訴えると、女と金にめっぽう弱い看守は、大喜びで引き受けてくれた。
「牢獄なんかに行かせて、すまなかったな。」
ベルナールは、女の方が怪しまれないと思っての策ではあったが、無事に役目を果たした妻の顔を見てホッとして言った。
「あら、オスカルさまのためですもの。どんなことだってするわ。」
無邪気な答えが返ってきた。
「…」
「あのパンは、わたしのオスカルさまへのありったけの思いを込めて焼いたのよ。たとえどんなことがあっても、わたしのオスカルさまへの思いにはなにひとつかわることはないの。男女の愛をこえた深いつながりがわたしとオスカルさまの間にはあるのよ。」
ロザリーは夢見るように遠くを見つめ熱っぽく語った。
「ああ、どうかこの思いがオスカルさまの大切な部下の皆さんに届いて、少しでも皆さんが元気になりますように…」
兵士釈放のために一日奔走してきたベルナールは、疲れきった身体をひきずるようにして黙って寝室に向かった。
まるで誰かの切なさを肩代わりしたかのような哀愁が、その背に漂っていた。
終わり
おまけ
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