オスカルに置き去りにされてしまったアンドレはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
べったり一緒はうっとうしいんだろうよ…
このアランの言葉にオスカルが反応したのだと、ようやく気づいた。
べったり一緒…
その幸福が自分にとってどれほどのものか、オスカルには想像もできないだろう。
地位も身分もない自分に与えられた唯一の特権、それが‘べったり一緒’だった。
通常では絶対に入れない貴族社会に、オスカルの従者ということで付き従った。
オスカルの影として、どこへ行くにもお伴をすることがアンドレの絶対的な義務だったのだ。
周囲からの白い目があったとしても、その義務は決して負担ではなく、ましてやうっとうしいなどと思ったことは神かけて一度もない。
オスカルのそばにいることが生き甲斐だったのだ。
ただ、そのようにそばにいても、決して対等な男女の関係を築くことはできない。
それを思い知らされることはたびたびあり、そのときは心底つらかった。
たとえば、オスカルが密かにフェルゼンに思いを寄せていると気づいたとき…。
実は自分は…と告げることはできなかった。
ただ見守るしかなかった。
ギリギリまで耐えて耐えて、ついに耐えられず、激情的に告白するほどに、自分を抑えていた。
馬鹿なことをしたと思っている。
今でもあの時の自分を殴り飛ばしたい。
そしてオスカルの結婚話がちあがったとき…。
堂々と求婚者として将軍に認められ、ジャルジェ家に出入り自由となったジェローデルに対し、どれほど卑屈な嫉妬心を抱いたことか。
われながら吐き気がするほどみじめだった。
そして悪魔の誘惑に負け、あるまじき罪を犯そうとすらした。
それゆえにオスカルにズタズタにされるなら、致し方ないと今でも思う。
地獄の日々の果てに、一筋の光が見えたのは、将軍の好意で現実の視力にも光が差したのと同時期だった。
絶望から至福へ。
自分に与えられたとは思えないほど幸福だった。
結婚できたのだから。
そのとき、やっとわかったのだ。
オスカルへの恋慕を妨げていたのは、身分差ではなかった。
平民だからオスカルに愛されなかったのではない。
卑屈で卑怯だったからだ。
オスカルは身分で人を計るような人間ではない。
それを、誰よりもそばにいて知っていたのは、他ならぬ自分ではなかったか。
ただそばにいられるだけで充分に幸福だと、今なら胸を張って言える。
うっとうしいなどと、どこをどう押せばそんな馬鹿げたことを思うのか。
そこまで考えて、はたと気づいた。
いや、違う。
うっとうしいと思っているのは実はオスカルのほうではないか。
「おまえは毎日べったりだとうっとうしいか?」
この問いに答えるべきはアンドレではなく、実はオスカルで、
「わたしは毎日べったりだとうっとうしい」
ということが言いたかったのではないか。
そう思うと、血の気がひいていった。
結婚以来、昼も夜もともに過ごしている。
別行動はほとんどない。
アンドレにとってはこんなに嬉しいことはないが、オスカルにとってはどうだったのだろう。
腰巾着のようにはりつくアンドレの存在が重くわずらわしく思われていたとしたら…。
オスカルはジェローデルの元に出向いていった。
わざわざ自分から、一日に二回も…。
ジェローデルとの破談については、詳しくは聞いていない。
侍女たちの話では、暴徒に馬車を襲撃されアンドレが負傷した頃から、ジェローデルはぷっつりとジャルジェ家に来なくなったそうだ。
「愛には色んな形がある。ジェローデルはもう二度と来ない。それがあいつの愛の証しなのだ」
それが結婚式を挙げる前、オスカルの口から聞いたすべてである。
二人の間でなんらかの話し合いが持たれたことは想像できた。
だが、オスカルが語らない以上、アンドレは聞けなかった。
オスカルは負傷したアンドレに同情しただけだったのだろうか?
同情から結婚してくれたのだろうか。
そして今になって、べったり一緒である毎日がうとましくなったのだろうか?
想像がこれ以上ないほど悪い方向に向かって走り出した。
身分で人を愛さないように、同情で結婚するようなオスカルではないことを、アンドレはまたもや忘れてしまった。
ここでうじうじと悩んでいてもどうしようもない。
彼はオスカルの机の上から勤務表を探しだし、急いで部屋を出た。
これがなければ、近衛隊との日程のすりあわせができない。
オスカルは勢いで飛び出していったから、手ぶらのはずである。
早足でフランス棟を出て、宮殿に入り、長い廊下を走った。
行き交う人があわてて道を譲るほど、速度を上げた。
オスカルが近衛隊に着く前に追いつかねばならい。
アンドレの軍靴の音がカッカッと響き渡った。
だがオスカルの姿はどこにもなかった。
これほど慌てて走ってきても間に合わないということは、オスカルは近道をしたのだろう。
きっと宮殿前広場を突っ切ったのだ。
うかつだった。
あの勢いで飛び出したオスカルが几帳面に廊下を行くはずはなかった。
アンドレは近衛の詰め所に近づくと、速度を落とし、息を整えた。
詰め所の事務官に、ジャルジェ准将が来ているか問うと、案の定、先程入室したとのことだった。
遅かった。
仕方なく、会談に必要な資料を持って来たのだが、と伝えると、事務官が自分が持っていこうと言ってくれた。
よく見れば、オスカルの近衛隊時代にもいた事務官だ。
アンドレ・グランディエという従者の存在を覚えていてくれたらしい。
できれば自分で届けたかったが、よろしくお願いします、と言って手渡した。
事務官は席を外し、司令官室に向かって歩き出した。
アンドレはその背中を黙って見送った。
オスカルはいつも扉の向こうにいて、自分は入れない。
そのとき、奥の扉が開いた。
出てきたのはオスカルだった。
頭の先から足の先まで不機嫌が服を着ているようだ。
オスカルの後ろからジェローデルが見送りに出てきた。
「すぐに資料を取って戻って来る。わざわざ見送りなど要らん」
首だけジェローデルを振り返り、とがった声で申しつけている。
それから前を向いたオスカルは、事務官が立っているのに気づいて足を止めた。
「何か用か?」
オスカルの背後からジェローデルが質(ただ)した。
「衛兵隊から資料が届きました」
差し出された書類を、オスカルが手荒く奪い取った。
そして廊下のはるか前方に目をやり、アンドレの姿を認めた。
「これは手際が良い。ではお戻りになる必要はありませんね。もう一度こちらにお入り下さい。調整の続きをいたしましょう」
ジェローデルが後ろ手に閉めかけた司令官室の扉を再び開けた。
だがオスカルはその言葉が聞こえなかったかのように、つかつかとアンドレに向かって歩き出した。
「わざわざ追いかけてきたのか?自分で取りに戻るのに…!」
大きな声だ。
「途中で追いつけるかと思ったんだが…」
アンドレがすまなさそうに頭をかいた。
「おまえのことだから、もしかしたら勤務表はすべて頭にたたき込んでいるのかもしれないが、やはり現物があったほうが調整しやすいと思ったものだから…」
顔が見たくてとは言えず、長々と言い訳がましくなった。
「随分な嫌味だな」
「そんなつもりはないよ」
あわてて否定する。
「ごまかすな!」
声を荒げたオスカルに事務官が目をパチクリさせている。
部下であった時はよく聞いたものだが、久しぶりのアルト罵声だなあ、などと感心している風でもある。
「悪かった。余計なことをしてしまった」
こうして追いかけてくるのもうっとうしいのか。
少し思い上がっていたのかもしれない。
「本日の会談は中止ですか?」
冷静な少佐が若干イライラしている。
面会を申し込んできたのはそちらではないか、との思いがあるのだろう。
思いがけず一日に二度の訪問を受けたジェローデルの胸が少しばかりざわついたことは否定できない。
いや、少しばかりどころではない。
相当に嬉しかった。
二人だけで会うのは、正式に婚約拒否を告げられて以来だったのだ。
そして、いまだにこれほどうれしく思うということは、自分がまったく彼女を忘れられておらず、したがって失恋の痛手から未だに全然立ち直っていないという事実を思い知ることでもあった。
そこに、あろうことかアンドレ・グランディエが現れたのである。
声にいらだちが混じるのはやむを得ない仕儀だった。
「資料が届いた以上、会談は続行だ」
面会日確保のために来たのだから。
だが、オスカルとしては、アンドレに腹が立って部屋を出る理由にしただけ、という側面があった。
というか、それが第一の理由だった。
情けない話である。
アンドレの自分への態度に振り回されている気すらする。
どうしてこんなにも女なのだろう。
部下のために動くのが上官の務めのはずだ。
武官たるもの、感情で行動するものじゃない。
いつかアンドレに言われたことばがよみがえる。
ああ、またしてもアンドレだ。
本当にどうしてこんなにも…。
オスカルはくるりと向きを変えると、司令官室に向かった。
ジェローデルはオスカルを追い越して司令官室に入り、オスカルがそのあとに続いて入った。
扉は静かに閉められた。
アンドレはまたもや置き去りにされた。
※こちらはは第一部の「親子」と「助言」の間の挿話です。
扉 目次 親子 助言 掲示板 犬も食わない3 犬も食わない5